丹波 (京丹後市)
丹波(たんば)は、京都府京丹後市にある地名。大字としての名称は峰山町丹波。713年(和銅6年)以前の丹波国の文化の中心地とみられる地域である[1]。 地理竹野川を日本海側から遡上すると、峰山町矢田のあたりで湧田山古墳群が川岸に迫り、その横の隘路を遡上すると竹野川流域で最大の穀倉地帯に入る[2]。峰山町丹波はその入口にあたり、西の峰山町石丸を経て福田川流域とも距離が近く、南の峰山町荒山を経て南西を横切る鱒留川は比治山峠を通じて久美浜と結ばれる。さらには竹野川上流域の三重以北はかつては水戸谷を経て野田川に流入しており、舟運に頼るところの大きな古代においては丹後地方有数の交通の要衝とされた[2]。様々な弥生土器や石器・鉄器、北に前方後円墳ほか数十基の円墳を擁する湧田山古墳群、南に深大な環濠を擁する高地性集落・扇谷遺跡や七尾遺跡、隣接の峰山町杉谷のカジヤ円墳(直径73メートル)など、古代におけるこの地域の重要性を物語る遺物が多数発見されている[2]。 古代には交通の要衝として発展したとみられる一方、丹波の土地はほぼ平坦なうえに竹野川の水位が低いことにより、近世においては農業用水の確保が大きな課題であった。1655年(明暦元年)、村役人の伊左衛門が測量・主導し、荒山地内に井堰を設けて竹野川上流から水を引き入れる「丹波の大溝」が建設されたことにより、田畑の約4割でこの課題は解消された[3]。
小字
歴史
明治期以降における京都府は、時代を遡ると山城国と丹波国の2国であり、このうちの丹波国から713年(和銅6年)に北部5郡が分かたれて「丹後国」となった。通例、国が分割される場合は前・中・後を付けて命名するのが一般的であるが、2国に分かれた丹波国においては丹波の名は都に近い南部に残され、北部は「たには(丹波)のみちのしり」の意で丹後と命名された。「丹波」の表記は、もとは「旦波」「但波」などとも表記される。和語地名「たには」に漢字を当てたものと思われ、早期に稲作や農耕が始まった土地であることから語源は「田庭」と考えられている[8]。旧丹波国の文化圏の中心は、新丹波国ではなく新たに丹後国と呼ばれるようになったほうにあるとみられ、もと丹波国丹波郡丹波郷であったその中心地が、21世紀現在の峰山町丹波と推定されている。全国に点在する「丹波」の地名が古代から連綿と続いている土地は、峰山町丹波のみである[9] ことがその理由のひとつである[1][10]。一帯は「古事記」「日本書紀」の伝える大和王権と姻戚関係を結んだ伝承地として全国的にみても早期に位置付けられており、地理節において前述したとおり、考古学史上重要な発掘が続く地域であり、風土記逸文における「羽衣伝説」など重要な伝承も多く残る[11]。 『丹後国風土記』からみる「丹波」は、丹波村のほか矢田、石丸、赤坂、内記を含めて丹波の里とする。また、『和名類聚抄』丹波郡七郷の「丹波郷」は『日本地理志料』によると丹波、桜内、杉谷、峰山、安、西山、小西、赤坂、石丸、橋木、矢田地域とみられ[12]、慶長年間の『拝領郷村帳』では丹波郷は字丹波郷という小地域の名称となり、その後の江戸時代には丹後国中郡丹波村があり、当初は宮津藩領、元和8年(1622年)からは峰山藩領だった[12]。 廃藩置県後の1871年(明治4年)にはまず峰山県の所属となり、次いで豊岡県の所属となった後、1876年(明治9年)に京都府の所属で落ち着いた。1884年(明治17年)、丹波・杉谷・矢田・橋木・石丸・赤坂の6村は連合戸長役場を丹波村に置いた[12]。1889年(明治22年)、町村制にともなって中郡丹波村が発足し、丹波村の大字として丹波が設置された。 1927年(昭和2年)3月7日に起こった北丹後地震では、丹波村全体で355戸が全壊、177戸が半壊し、68人が死亡した[13]。 1955年(昭和30年)1月1日、峰山町・吉原村・五箇村・新山村・丹波村の1町4村が合併して改めて峰山町が発足し、丹波は峰山町の大字として丹波が設置された。2004年(平成16年)4月1日、峰山町・大宮町・弥栄町・網野町・久美浜町・丹後町の6町が合併して京丹後市が発足し、京丹後市の大字として峰山町丹波が設置された。 人口
名所・旧跡
施設
脚注
参考文献
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia