多久神社
多久神社(たくじんじゃ)は、京都府京丹後市峰山町丹波小字涌田山にある神社。式内社。本殿が京都府登録有形文化財(建造物)に、秋の祭礼で奉納される芝むくり神事が、京都府登録無形民俗文化財に登録されている[1]。 祭神
歴史慨史『延喜式神名帳』に記載された式内社の、丹波郡九座のうちの小社「多久ノ神社」とされる[5]。伝承によれば崇神天皇の時代に羽衣天女が舞い降りた丹波郷のある池の場所に創建された。嘉吉年間(1441年~1444年)に現在地へ遷座する以前は、西に約4,500メートル奥まった場所にあったという[6]。 祭神として祀られるこの天女は豊受大神と同定され、この地に酒造りをもたらした神として、天酒大明神と呼ばれ崇敬された。天女が舞い降りた創建の地は、21世紀初頭に多久神社が鎮座する場所に近い「ヲタ池」と呼ばれる場所で、汚すと大雨の祟りがあると伝わる[7]。なお、峰山町に伝わる羽衣伝承では、羽衣天女が舞い降りた池は『丹後国風土記』逸文や『丹後旧事記』の記述から「真名井」とよばれ、峰山町と大宮町にまたがる磯砂山にある「女池(めいけ)」であるとする説が広く知られている[8] 文献にみえるところでは、1753年(宝暦3年)の『峯山明細記』に、「天酒大明神を祀る六尺社」で「9月8日に河部村の神子相模を雇って神事を行った」等の記録がある[9]。 丹波郷(丹波村、内記村、矢田村、橋木村、赤坂村、石丸村、新山村)の総社とされた[10]。1873年(明治6年)、丹波村の村社となった[11]。 多久論争1869年(明治2年)頃、政体御一新により俗称を廃止して古神道による神社号への改号が原因となり、総社である多久神社の由来を巡る「多久論争」が勃発する[12]。丹波(たには)の二ハを逆から読むと「ハニ」となり、二をミに読み換えて「ハミ」すなわち「波弥」、食(ハム)の神社であるから丹波は波弥と同じであり、多久神社の故地は近在の荒山村新町村にある「たこ谷」「たこ千軒」と呼ばれる地「たこ」すなわち「多久」の地であるという新説が唱えられた[12]。これに対し、当時、多久神社を預かっていた今西伊予が、丹波は古書に記録されるように「たには」に相違なく、断じて「波弥」ではないことを明白にするよう、藩の社寺司に申し出ている[12]。 この結果は資料に残されていないが、社寺司に提出された『神社取調帳』によれば、多久神社が旧地から現在地に遷座した理由に続いて「その当時(1440年代前半)、橋木村、矢田村、内記村、荒山村は御祭日の祭礼は一緒に努めて来たが、大論争から祭日が別々になった。」と記されており、近在の地区との論争はこれより約500年前からあったことがうかがわれる[12]。 境内背後に、全長約100メートルに及ぶ帆立貝式前方後円墳を盟主に、その他大小の円墳とともに42基の古墳群を抱え府の史跡指定を受ける湧田山古墳群が構成され、京都府の登録有形文化財に登録される17世紀建築の本殿の背後には、シイやモウソウチクなどの林が広がる。秋の祭礼で奉じられる神事芸能の芝むくりは室町時代からの風流小唄の流れを汲む府登録の無形民俗文化財であり、歴史的文化的にも価値が高い地域である[6]。 このため、山腹に鎮座する本殿とその周辺の森林約1.7ヘクタールが、「貴重な文化的景観を形成しており、保全すべき地域」として、2004年(平成16年)3月19日に、府の文化財環境保全地区に決定された[6]。 境内社1908年(明治41年)に、以下の5社を境内社として合祀した[13][4]。
社殿1811年(文化8年)9月25日に火災に遭い、本殿と上屋を焼失。21世紀に現存する本殿はその3年後に、宮の田地5石を売却した代金と有志金により再建されたものである[3]。また舞殿も1835年(天保6年)に焼失しており、こちらは1877年(明治10年)に改築された。拝殿は1912年(大正元年)に新築された[11]。 21世紀に現存する社殿は、次の通りである。
祭事主な祭事は次の通り。
府登録文化財
多久神社の祭礼で10月10日に行われる。祭礼での掛け声が「ちゃあ」ということから「ちゃあ」が俗名になっている。1816年(文化13年)当時には「ちゃう」とよばれていた[16]。 「芝むくり神事」が行われるようになったとされる由来は、4つの説が伝えられる[17]。1つ目が蒙古襲来の折の必勝祈願にかかわるもの[17]。2つ目は古事記の古例にある神事で、先導の若者がわさこ竹(笹)で道筋の悪鬼を祓い清める様を模倣したもの[18]。3つ目が室町時代の田楽を発祥とするもので、4つ目が丹後地方全域にある「笹ばやし」を発祥とする説である[17]。 関係地現地情報所在地周辺
脚注出典
参考文献
関連項目外部リンク |
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