中島らも
中島 らも(なかじま らも、1952年〈昭和27年〉4月3日[3] - 2004年〈平成16年〉7月26日[1])は、日本の小説家、劇作家、随筆家、広告プランナー、放送作家、ラジオパーソナリティ、ミュージシャン[1]。 本名:中島 裕之(なかじま ゆうし)[1]。ペンネームの由来は、無声映画時代の剣戟俳優、羅門光三郎から[2][4][5]。活動当初は「羅門」「Ramon」「らもん」等のペンネームで雑誌に詩の投稿をしており、仲間内でも「らもん」を名乗っていたが「読者に名前を覚えてもらいやすいように」と1982年に「らも」に改名した[2]。本項では名の表記を、原則として「らも」で統一する。 兵庫県尼崎市出身[1]。広告代理店社員のコピーライター[1]としてキャリアをスタートさせ、劇団・笑殺軍団リリパットアーミーを主宰し、俳優としても活動した[1]ほか、自主的団体「全国まずいもの連盟」会長[6]を自称した。 一男一女の父で、長女は作家の中島さなえ。 経歴生い立ち兵庫県尼崎市の立花駅近く[7]で、2人兄弟の次男として生を受ける。後にらもは「躁鬱病は父親から、アル中は伯父から受け継いだ」と語っている。父親は開業歯科医をしていた[8]。後のらもと同じく、父親も躁鬱病を患っていたといい、それに起因すると思われる奇行を度々繰り返していた(小学生だったらもに突然「裕ちゃん、今日は太陽が西から昇る」と言い出しそのまま入院する、自宅の庭にローラースケート場やプール[7]を突発的に自作する、大量の砂糖を備蓄する、弓を始める、突然、宗派を変えるなど)。また伯父(父の実兄)は酒販店を経営していたが失敗して「浮浪者同然[8]」になり、泥酔して中島家に金の無心に来て断られては玄関先で暴れていたという。 尼崎市立七松小学校に入学[2]。10歳の時、母親の勧めで神戸市立本山第一小学校に転入[2]。スポーツ嫌いで、友人の野球の誘いを断って偉人伝を読むような子供だったという[7]。また、将来は漫画家になりたいと思っていた[9]。成長につれ、貸本を通じ、白土三平などの漫画や、山田風太郎などの小説に親しむ[2]。 学生時代灘中学校に、約150人の入学者中8位[10][11]の成績で合格。しかし、ある教師の一言から、自分を取り巻いている環境に幻滅し、「親や教師に言われるままの勉強ロボット[10]」になっていたことに気付いたらもは、灘校在学中に、以下の趣味に没頭した。
そして、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』[19]や、ヒッピームーブメント[20]に衝撃を受け、酒、たばこ、そして薬物にも手を出し始める。これらの「悪さ[11]」のために、成績が急降下。授業もテストも受けずに「番外地[11]」で灘校を卒業することになった。 神戸YMCA予備校[21][22]の受講生となるも、同校に顔を出したのは数回で、同校が所在する三宮のパチンコ店やジャズ喫茶へと足繁く通うようになり、ジャズ喫茶にたむろする「フーテン」と共にアルコール、有機溶剤[23]、鎮静薬・睡眠薬[24]、大麻[25]に耽溺。文学論、思想について雑談するなどして過ごす。らもはこの頃のことを、「ずいぶんいろんな面白い体験をしてるはずなのだが」、将来に対する不安から「あまり覚えていない」「あまりに憂うつだったので、無意識に記憶を消し去ろうとしている」と述べている[26]。 1年間のフーテン生活の後、らもはフーテン友達による大阪芸術大学芸術学部放送学科の受験に同行し、合格[22][27]。同校への入学を決める。授業にあまり出なかったため、友人はほとんどおらず、何もせず芝生に寝転がり、トンビをながめたり[28]、構内に迷い込んできた犬の世話をしたりする[29]などして時間を潰していたという。この頃から急に饒舌になったかと思うと、翌日には寡黙になる、といった不安定さを見せたという。大学時代は高校在籍時から伸ばした髪が、腰まで届くほどの長髪になる。1975年に大学を卒業。卒業論文のテーマは「放送倫理規定[2]」であった。 この間の1970年、神戸山手女子短期大学の学生だった(のち、学校図書館の司書となる[30][31])長谷部美代子と、三宮のジャズ喫茶「バンビ」で知り合い[2]、4年間の交際の末、1975年[30]に結婚。2LDKのアパート[2]で新婚生活をスタートさせた。 らもは学生と主夫の兼業をこなしていたが[31]、妻の妊娠のため、就職の必要が生じた[31]。しかし、らもは大学卒業間際になっても就職活動をしておらず、慌しくなる周囲を傍観しているだけであり、見かねた公認会計士の叔父の紹介[30]により、1976年[2][注釈 1]4月[32]、印刷会社[1]の株式会社大津屋[2]にコネ就職。同社で5年間勤める。 営業マン時代大津屋入社後、数ヶ月で仕事のシステムを覚え、広告の制作・営業を担当。新規開拓の飛び込み営業、受発注、校正、見積もり、不渡り手形の回収、差し押さえ、印刷ミスによる謝罪と何でもこなした。受け持った得意先は建築会社やボイラー会社などであった。酒が強かったらもは、親の跡目を継いだ二代目社長に新地やミナミにお供として連れられ、日付が変わってからの帰宅がほとんどであった。酒の席で社長が得意先の社員の頭を太鼓に見立てて叩いたのを見たらもは、「あんな奴でも社長になれるんや」と妻にボヤいたという。 1980年(当時28才)のある日[2]、会社で上司が経理の女子社員ににぎりっ屁を嗅がせ、泣かせたのを見て「この会社は長くない」と感じたらもは、取引先の社員[33][34]と一緒に雑誌『宣伝会議』主催のコピーライター養成講座に通い、藤島克彦[注釈 2]、林均らに師事[35]。半年の受講で「一等賞」を8回受賞し、賞状と「ミッキーマウスの時計」をもらって講座を修了した[33][34]。 この間、1976年4月[30]に長男が誕生。1978年[2]に長女を授かる。「食うに困らないように[36]」との願いを込め、息子には「穂」、娘には「苗」の字を含めた。 ヘルハウス時代大津屋時代の1977年(当時25才)、宝塚市[37]に月2万7千円の30年ローン[2]で一戸建ての邸宅を購入している。 1980年5月[32]、「フリーのコピーライターで食っていく覚悟をきめ[34]」大津屋を退職[注釈 3]。その後、この宝塚の自宅は、「中島が暇らしい」と押しかけた友人知人の他に、「自称ミュージシャン、パンクス、スキゾ、フーテン、ジャンキー、山師、グルーピー、不良外国人」のたまり場となり、学生時代の薬物遊びが再燃。知り合いの医師から処方箋を入手してハイミナールを集めたり、酒やコデインを飲んでヨタ話をしギターを弾いたり、夫婦で居候達と性交渉をしたりして過ごすうちに、この家は外国人バックパッカーらの間で「ドラッグが回ってくる家」として口コミで広がるなどし、やがて「ヘルハウス[1]」と呼ばれる。ただ、この頃のらもはマリファナなどの違法薬物の持ち込みには厳しく、持ち込んだ者に対して「家族を巻き込むな!」と叱責してもいる。 「ヘルハウス」の1ヶ月の累計宿泊者は、100人を超えた時もあり、汲み取り式便所の汲み取り口から排泄物が溢れそうになったという[38]。このほか、顔にドーランを塗って夜の道路を徘徊したとか、猫に睡眠薬を飲ませたら翌朝、飼っていたウサギが首だけになっていた[39]、といったエピソードが残っている[40][41]。このころの生活は、2000年に出版された自伝的な小説『バンド・オブ・ザ・ナイト』の元になった[1]。 また、「パンクで一発、当てるつもりで[33]」ロックバンド・PISSを結成。仲間からレコーディング費用を集めるも、レコーディング直前に費用を女に騙し取られたため頓挫した[33]。 コピーライター時代1981年3月[42]、らもは藤島克彦の紹介で広告代理店の株式会社日広エージェンシーに再就職[2]。社長の宮前賢一は、藤島の関西学院大学時代の1年先輩に当たる人物で、卒業後も親交があった[42]。宮前はらもの灘中高卒業という経歴に惹かれ、「カバン持ちにして連れ回したら優越感にひたれる」という理由で採用を決めた[42]。 日広エージェンシーはその年に設立されたばかりで、宮前をふくめ、経理の女性とらもの3人[43]しかいない会社であった。宮前はらもをほぼ毎日、夜の繁華街に連れ出して飲み歩かせ、業務に関しては「なんぼ失敗してもええぞ。全部責任はわしがとったる」と告げ、放任した[42]。らもはそんな宮前から「仁義の切り方」を学んだという。らもは当初、得意先を回る営業を担当した[42]が、やがて自発的に広告・テレビCM・新製品[注釈 4]の制作企画を兼務するようになり、のちに「企画課長」の肩書を与えられた[44]。 あまりにも仕事が暇だった(自分で営業をかけない限り仕事がなかった)ため、電柱から次の電柱まで歩く気力が無くなり「これはうつ病だ」と直感、最寄の精神科に飛び込み、渋る医師を説得してリタリンを処方してもらうことで一旦寛解したものの、依存を断ち切るために断薬し、症状を再発させている[45][注釈 5]また、在籍末期には離人症気味になり、東京・月島にあった支所(アパートの一室)にこもって仕事をおこなった[46]。 灘高校時代の同級生、村上健[44]が常務を務めていた(のちに代表取締役社長)、かねてつ食品(のちのカネテツデリカフーズ)をスポンサーに1982年、雑誌『宝島』に同社の広告シリーズとして『啓蒙かまぼこ新聞』を企画・制作[2]。広告に不信感を持つ層をあえてターゲットとして[42]、広告の構成としては異例だった投稿コーナーと漫画を通じ、スポンサー企業と読者=消費者が一緒になって広告上で遊ぶことを通じて、消費者に商品に対する関心を持たせる[42]という独特の方法で、翌1983年開始の同社の広告シリーズ『微笑家族』(『プレイガイドジャーナル』→『ぴあ』掲載)[2]とともに、注目を浴びる。らもは『啓蒙かまぼこ新聞』でTCC準新人賞を受賞した[47]。 同年、テレビのあまりの下らなさに激怒したらもは、広告・CMのプレゼンとして書き溜めていた台本を「成仏させるため」にコント用に書き直した。このコント原稿はテレビ番組『どんぶり5656』として結実した。 1984年から朝日新聞大阪本社版日曜版「若い広場」で、独特のユーモアを交えた人生相談コーナー『明るい悩み相談室』連載が始まる[1]。
1986年6月[2]には、知人の関係する舞台のあまりの下らなさに激怒して、「笑殺軍団リリパットアーミー」を、キッチュ(現・松尾貴史)、鮫肌文殊、若木え芙(現・わかぎゑふ)、ガンジー石原、ひさうちみちお、桂吉朝らと結成、脚本執筆のほか、自ら出演もこなした。 作家活動1987年、らもは宮前に独立を申し出て、快諾を受け、日広エージェンシーを退社[2](宮前の回想では、宮前の側から独立を促したとしている[50])。同年7月、「有限会社中島らも事務所」を設立[2]し作家活動を本格化させる。宝塚の自宅には全く帰らなくなり、事務所で寝泊りするようになる。戯曲、エッセイ、小説、新作落語、バラエティ番組の脚本やコントなどを、多数執筆する。その「ひねくれたユーモア感覚」で、「関西独特のおかしさ」や「市井の奇人や奇現象」などを描き、多くの読者、ファンを獲得。元来、責任感が強い上に営業マン時代のクセで依頼された仕事を片っ端から引き受けていたらもは「仕事を断る仕事」として女性を電話番に雇う。 多忙な人気作家となるも、飲酒や薬物の摂取がもたらす酩酊から着想を得ていたらもは、やがて連続飲酒を繰り返すようになる。アルコール依存を自覚していたらもは極度の疲労感、食欲の減退、体重減少、嘔吐、失禁、異常な尿の色、黄疸を自覚するようになり、1988年秋[51]、アルコール性肝炎と診断され、大阪府池田市内の病院に50日間入院[1][46][51]。後にこの体験を基に、小説『今夜、すべてのバーで』を書いている[1]。 1991年[2]、単行本版『微笑家族』のあとがき[52]において「広告屋としての自分は、正直に言ってあまりモノにならなかった」「雑文や脚本、小説、落語などを書いて口を糊しているが(略)広告屋の看板が降ろせない。が、これは考えてみればどちらのフィールドの人にとっても気分の悪いことだろう」として、「コピーライターの看板を降ろす」と表明した。同文章では、「僕は広告を信じない。信じない人間に広告が作れるわけはない」ともしている。 晩年1994年(当時42才)[2]、かつて頓挫したPISSを再結成し、ボーカルとギターを担当。2003年[2]に結成された「らも& MOTHER'S BOYS」ではボーカルとサイドギターを担当するなど、音楽のジャンルでも活動の場を広げる。その一方、リリパットアーミーを2001年[2]に「あほらしくなって[53]」退団している。 『バンド・オブ・ザ・ナイト』上梓後の一時期、処方されていた薬の副作用のため目のかすみがひどくなり、自分で文字を書き、原稿を読み返すことに支障をきたすようになったため、妻の手を借り、口述筆記で執筆をおこなった。のちに、らもの処方箋を見た歯科医の実兄が副作用が激し過ぎると教え、減薬を行い、本が読めるまで回復[54]。また、持病の躁鬱病に加え、ナルコレプシーを発症。これらの症状のため、時間概念の喪失、運動障害、躁状態がもたらす万能感からくる支離滅裂の言動がたびたび見られた。減薬と入院治療により、ある程度の回復を繰り返すも、飲酒は続けていた。 2003年2月[1]に「オランダで尻から煙が出るほど大麻を吸ってきた」と大阪のラジオ番組で公言。この数日後、2月4日[2]に麻薬及び向精神薬取締法違反、大麻取締法違反で逮捕[1]。この時の家宅捜索で、大麻のほか、冷蔵庫から干からびたマジックマッシュルームが見つかる。大阪地方裁判所での初公判では弁護士から自重するよう求められていたにも関わらず持論の「大麻開放論」を展開。同年5月26日に懲役10ヶ月、執行猶予3年の判決を受ける[1]。同年の夏、自らの獄中体験をつづったエッセイ『牢屋でやせるダイエット』を出版、手錠姿でサイン会を開くなど精力的に活動を再開した。 2004年7月15日[2]、神戸市内で行われた三上寛、あふりらんぽのライブに飛び入り参加。終演後に三上寛と酒を酌み交わし別れた後、翌16日未明、飲食店の階段から転落して全身と頭部を強打。脳挫傷による外傷性脳内血腫のため神戸市内の病院に入院、15時間に及ぶ手術を行うも、脳への重篤なダメージにより深刻な状態が続き、自発呼吸さえ出来ない状態に陥る。 入院時から意識が戻ることはなく、事前の本人の希望[注釈 6][注釈 7]に基づき、人工呼吸器を停止。同月26日[2]8時16分死去。52歳没[56]。 死後故人の生前の希望で葬式は身内と近親者のみで密葬として行われた。遺骨は妻の手で散骨され[2]、墓は建てていない。同年12月に中島らも事務所は閉所[2]。 親交のあった人物らによる追悼イベントがたびたび行われている(後述)。 作風・執筆傾向著作広告
放送番組構成単著
共著者は括弧内。
他メディア化作品
共著
出演
音楽活動
バンド
評伝
他に、蒼井上鷹の長編ミステリ『出られない五人』(2006年祥伝社)は、中島をモデルとした物故作家の強い影響下で登場人物が動く密室劇となっており、全篇にわたってオマージュが捧げられている。この作家本人はプロローグにしか登場しないが、架空の作品がたびたび引用される。 追悼イベント
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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