下山懋
下山 懋(しもやま つとむ、1890年[1][2]2月23日[3] - 1987年[1][2]1月19日[4])は、日本の教育者、国語教育学者、国文学者、郷土史家、作詞家[5][6]。 人物埼玉県入間郡芳野村谷中(現在の川越市)生まれ[3]。父は飯能戦争で新政府軍として参加した川越藩士の下山忠行。 1910年、埼玉県師範学校を卒業。1914年、埼玉県女子師範学校附属小学校で訓導となり[6]、埼玉県立浦和高等女学校で教鞭を執り、東京帝国大学選科に進んだ。その後、埼玉県立越ヶ谷高等女学校[7]、埼玉県大宮高等女学校、浦和市立高等学校[8]、埼玉県立浦和高等学校[9]、別所幼稚園[10]、武南幼稚園・武南中学校・武南高等学校[11]などの学校で校長・園長を歴任した。元埼玉県教育委員会教育委員[12]。元川口市教育長[5]。元埼玉県共同募金会理事[13]。 綴方教育(作文教育)の提唱者であった芦田惠之助の影響を受けて埼玉県の綴方教育の先導者となり、戦後は埼玉県教育委員会の学務課長として新教育を進めた[5][6]。校歌の作詞者としても知られる[5][6]。埼玉県さいたま市大宮区にある山丸公園には大宮町長であった白井助七の顕彰碑があり、その裏側に刻まれる文章を撰文した。 作品著書
作詞
監修
補作
校正注釈脚注
関連項目 |