上田城
上田城(うえだじょう)は、長野県上田市二の丸(旧・信濃国小県郡上田)にあった日本の城。なお、現在残っている城は、仙石忠政によって江戸時代初期の寛永年間に再建築城されたものである。 概要上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれることもあった[1]。北に太郎山、南に千曲川があり、築城前は土豪小泉氏の古い城館が存在した(現在、二の丸より西側の小泉曲輪と呼ばれている場所)と伝えられる。城の南側は千曲川に接し、北側と西側に矢出沢川を引き込んで総構えとし、唯一の攻め口である東側にも蛭沢川や湿地帯などがある。 上田城は戦国時代末期、信濃国小県の真田氏館(真田本城)の真田昌幸が真田氏当主であった1583年(天正11年)に築城が開始された平城である。1585年頃に真田氏館などから本格的に拠点を移したと考えられている[2]。天正11年、天正13年、天正18年と何度かの過程を経て築城をされたものである[3]。上田を含む信濃国は、支配していた武田勝頼を甲州征伐で滅ぼした織田信長が本能寺の変で横死した後、天正壬午の乱と呼ばれる争奪戦が行われた。甲州征伐で生き残った真田昌幸は、臣従する相手を次々変えたうえに徳川家康についたが、天正壬午の乱の戦後処理を巡り対立。1585年(天正13年)の第一次上田合戦で攻め寄せた徳川軍を撃退した。 その後に天下人となった豊臣秀吉亡き後に起きた関ヶ原の戦い(慶長5年)で西軍についた真田昌幸は、連動する第二次上田合戦でも東軍別動隊の徳川秀忠軍をよく防いだ。本戦で西軍が敗れたため、昌幸は紀伊国の九度山に配流され、翌1601年に上田城は徳川軍に破却され、堀も埋められた。 江戸時代には上田藩の藩庁が置かれていた。昌幸の嫡子である真田信之は関ヶ原の戦いで東軍についたため、上田など真田領を安堵されたが、上田城が破却されていたため元々の居城である上野国沼田城を本城とし、上田城三の丸跡地に屋敷を構えて統治を行った。この頃、城下町の整備が行われた。真田信之は江戸幕府に対して元和7年(1621年)に城の再整備・拡張を申請するが却下され、元和8年(1622年)9月には信濃国松代へ転封された。上田には小諸藩より仙石氏が移封された。仙石忠政[注 1]は破却されたままの上田城の再建を申請し、寛永3年(1626年)から現在の上田城が普請されることとなった。真田氏時代の縄張りをも利用していると推測されているが、徹底破却の後に近世城郭として新たに築城された。本丸には櫓7棟、櫓門2棟、それらを繋ぐ塀が普請された。現在ある本丸の3棟の櫓(南櫓、北櫓、西櫓)など建物の外壁は煤と柿渋で防水した板を用いた下見板張の黒い外観である。二の丸にも櫓や櫓門を再建するため、櫓台なども構築されたが、寛永5年(1628年)4月20日仙石忠政の死により工事は中断され、これ以上の増築は行われないまま、仙石氏の転封および松平氏(藤井松平家)に藩主家が交代し、幕末を迎えた。 明治以降は、破却や城外への移築が行われて城内には石垣と櫓(西櫓)が1棟残るのみであった。昭和期に、移築されていた本丸の櫓2棟が元の位置に再移築され、平成期には櫓門や塀などが木造復元されている。今後、二の丸の土塁の復元や土塀や本丸の解体された4つの櫓と櫓門、土塀も木造復元されることになっている。 現在は旧二の丸内が上田城跡公園になっており、毎年花見の季節(4月上旬)になると、上田城千本桜まつりが行われ、多くの市民や観光客で賑わう。夜には千本桜のライトアップがされ、日本夜景遺産に認定されている。 敷地内には上田市民会館(平成26年(2014年)閉館)、野球場、市立博物館、招魂社などが置かれている。 本丸跡にある真田神社は、上田合戦で「落ちなかった」城であることにあやかり、受験生の祈願も多い[4]。神社境内には古井戸があり、「城外への抜け穴になっていた」との伝説がある。三の丸の藩主居館跡には、松平氏時代の屋敷門と堀が残されている。同地は現在上田高校の敷地として利用され、門は学校の正門として使用されている。 構造本丸を南側に置き、二の丸が本丸の北・東・西を囲み、二の丸と東の大手門の間に三の丸を置く、梯郭式といわれる縄張りとなっている。これは千曲川に接する断崖となっていた南側が最も天然の防御力が強く、当初は天正壬午の乱において後北条氏による上州方面からの、上杉氏による越後方面からの攻撃に対するものであった。翌1584年に真田氏が徳川氏と断交したため、当初は越後方面に予定していた大手(防御正面)を対徳川を想定して東側に変更した。 通常は本丸や二の丸など城の中心に置かれる政務用の建物が、三の丸に置かれているのが特徴である。これは、真田信幸が上田領を継承した際に、上田城は破却されており、城下町に近い三の丸跡地に居館を建てたことに始まる。その後、上田城は仙石氏により再建されたが、不完全なまま終わっている。また、仙石氏の上田城は本丸には本丸御殿はなく土塀、2つの櫓門、7つの櫓が立っていて二の丸には土塀が建っていただけで櫓台はあったが二の丸御殿、櫓、門は建てられなかった。小泉曲輪には建物は建っていなかった。三の丸には中屋敷、上田藩主居館が建っていて藩主は上田藩主居館に住んでいた。このことからも上田城は未完成の城だったことが分かる。 なお、堀底の発掘調査により、真田氏時代の金箔瓦や、菊花文軒丸瓦、金箔鯱の破片などが出土している[5]。現在本丸の一部の堀も含む堀が住宅開発で埋め立てられたこともあって現存する堀は本丸だけである。 上田城に天守はなかった。第一次上田合戦の様子を叙述した山鹿素行の『武家事紀』には、「天淵殿守モ無之小城」との記述が見られ[注 2]、江戸時代に仙石氏により再建された上田城にも天守はない。ただ第一次上田合戦当時の上田城は未完成とされていることや、寛永年間の作成という絵図には上田城本丸に「御天守跡」と記入されていること、桃山時代のものとみられる金箔を施した軒丸瓦や鬼瓦、鯱瓦の破片などが出土していること[6]、同時期の近隣諸城(小諸城や松本城、高島城)や嫡男真田信幸の沼田城に天守があることなど、いくつかの傍証から真田昌幸時代に三層四階建ての天守が存在した可能性はある(第一次上田合戦から第二次上田合戦後に破壊される間の資料が残されていないため、直接的な証拠はない)。 本丸は東西に延びた長方形だが、その北東の角のみ鬼門を避けるため欠いた構造をしている。 城下町上田城を中心に形成された城下町のうち、北国街道に沿った海野町、原町、横町、柳町、田町、鍛治町、紺屋町が宿場町の機能を担った[7]。海野町には本陣と問屋を兼ねた柳沢家があり、原町には問屋の滝沢家があって、宿役を勤めた。 歴史・沿革
真田氏の城郭上田での実際の支配期間は40年ほどであるが、小説『真田太平記』『真田十勇士』や時代劇の舞台として真田氏の居城「上田城」が登場する。戦国期の真田氏城郭にはほかにも以下の城がある。
友好城郭現地情報
登場する作品など
脚注・出典注釈
出典
関連項目外部リンク
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