三木利夫
三木 利夫(みき としお、1913年10月13日 - 1940年代[1])は、日本の俳優である[2][3][4]。本名は鈴木 利夫(すずき としお)[2][3]。新劇団テアトル・コメディを経て、P.C.L.映画製作所、東宝映画東京撮影所の異色俳優として活躍していた[3]。 来歴・人物1913年(大正2年)10月13日、秋田県秋田市に生まれる[2][3][4]。 1931年(昭和6年)2月、文化学院美術部(2018年閉校、現存せず)を卒業後、金杉惇郎、長岡輝子、森雅之、北沢彪、水口元枝ら若手俳優と共に新劇団テアトル・コメディ(1936年解散)を組織し、初舞台を踏む[2][4]。1935年(昭和10年)、兼ねての希望であった映画俳優に転じ、P.C.L.映画製作所に入社[2][3][4]。1936年(昭和12年)8月21日に公開された矢倉茂雄監督映画『太洋の寵児』で映画デビューを果たす[2][3][4]。翌1937年(昭和12年)、東宝映画併合によって東宝映画東京撮影所と改称された後も継続入社、1939年(昭和14年)5月20日に公開された熊谷久虎監督映画『上海陸戦隊』など、以後も戦争映画を中心に多数の作品に助演、異色俳優として活躍した[2][3][4]。この間、1939年(昭和14年)9月10日に公開された岡田敬監督映画『金語楼の大番頭』の撮影中に応召されるが、間も無く復帰している[4]。 1942年(昭和17年)5月21日に公開された阿部豊監督映画『南海の花束』に出演したのを最後に、再び応召される[2][3]。以後の消息は不明とされていた[2][3]が、1953年(昭和28年)1月10日に発行された『新選現代戯曲 第5巻』(河出書房)より、演出家の飯沢匡(1909年 - 1994年)が寄稿した「演出覺え書」において、金杉惇郎と共に同稿執筆の時点で既に故人であるという旨が記されている[1]。なお、第二次世界大戦で戦死したか否かについては不明である[1]。没年不詳。 1983年(昭和58年)11月1日、草加市立草加小学校旧西校舎跡(2008年10月23日、登録有形文化財)に開館した草加市立歴史民俗資料館には、三木が寄贈した大川平八郎(1905年 - 1971年)の寄書きが収蔵されている[5]。 出演作品P.C.L.映画製作所特筆以外、全て製作は「P.C.L.映画製作所」、配給は「東宝映画」、全てトーキーである。
東宝映画東京撮影所特筆以外、全て製作は「東宝映画東京撮影所」、配給は「東宝映画」、全てトーキーである。
東宝映画特筆以外、全て製作・配給は「東宝映画」である。 脚注外部リンク |
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