大谷俊夫
大谷 俊夫(おおたに としお、1907年 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、元俳優である[1][2]。当初のキャリアは水谷 登志夫(みずたに としお)名義で、監督、俳優としてスタートした。 人物・来歴1907年(明治40年)、広島県呉市に生まれる[2]。旧制・神戸第二中学校(現・兵庫県立兵庫高等学校)卒[1]。1923年(大正12年)、子爵家の長男、23歳の小笠原明峰が京都に設立した小笠原プロダクションに参加、翌1924年(大正13年)、水谷 登志夫名義で『風船売りの小母さん』(短編)を自らのオリジナル脚本で監督し、デビューしている[1][3]。同プロダクションでは、同作以降は俳優として、1926年(大正15年)の同社の解散まで4本に出演した[3]。 1933年(昭和8年)、日活太秦撮影所で、八田尚之のオリジナル脚本で、杉狂児主演の『お前とならば』を大谷 俊夫名義で監督し、同年5月25日に同作は公開された[4]。翌1934年(昭和9年)、現代劇の多摩川撮影所移転で同撮影所に異動し、同じく八田脚本・杉主演の『夫を想へば』を監督、同年5月31日、同作が公開された[4]。1936年(昭和11年)、中野実の小説の映画化『細君三日天下』を杉主演で監督している[4]。 翌1937年(昭和12年)、ピー・シー・エル映画製作所(P.C.L.)に移籍、同年1月14日に公開された秋田実原作のコメディ映画『心臓が強い』を横山エンタツ・花菱アチャコ主演で監督している[4]。同年、P.C.L.は合併して東宝映画となり、P.C.L.撮影所は東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)となるが、大谷は同社に残留、永見柳二・伊馬鵜平脚本のコメディ『牛づれ超特急』を藤原釜足主演に監督、同作は同年11月3日に公開された[4]。多くの喜劇で名を上げた[1]。ヘラヘラ笑うところから「ヘラ監」というアダ名がついた[1]。 1938年(昭和13年)11月3日公開の岸井明主演の映画『虹に立つ丘』を監督したのを最後に、東宝を去り、満洲映画協会に参加するため満洲国(現在の中国東北部)にわたる[4]。満映では、1945年(昭和20年)の解散までに、11本を監督し、うち2本の脚本を書き、王心斎監督作『玉堂春』(1941年)をプロデュースした[4]。 満洲からの引き上げ後、東京練馬の太泉映画(現在の東映東京撮影所)で、1950年(昭和25年)、『細君三日天下』を『オオ!! 細君三日天下』として、花菱アチャコを主演、三木鶏郎グループを客演にしてセルフリメイクした[4]。同社での次作、淀橋太郎脚本、柳家金語楼、横山エンタツ、花菱アチャコ、堺駿二出演による、同年7月18日公開の映画『突貫裸天国』を監督[4]。その後、東京都映画協会で演出した後フリーとなり、短編の文化宣伝映画を撮った[1]。 おもなフィルモグラフィ小笠原プロダクション
日活撮影所
ピー・シー・エル映画製作所
東宝映画東京撮影所
満洲映画協会太泉映画
註参考文献外部リンク |