三木鶏郎グループ
三木鶏郎グループ(みきとりろう-、1946年 - 1951年)は、かつて存在した日本のコーラスグループ、楽団付劇団である。三木鶏郎、河井坊茶を中心に結成された。 略歴・概要1946年(昭和21年)1月29日、三木鶏郎(当時本名の繁田裕司)が、NHKラジオ(現在のNHKラジオ第1放送)の新番組『歌の新聞』第1回放送に出演するにあたって、朝川賞郎、秋元喜雄(河井坊茶)とともに、「コメディアン・ハーモニスト」名義で出演した[1]のがさいしょのきっかけで、2週後の同年2月10日、第3回『歌の新聞』から、三木が「三木鶏郎」と名乗り、三木・朝川・秋元(河井)は、「ミッキートリオ」名義でレギュラー出演することになる[1]。 同トリオに、神田千鶴子、三木鮎郎、同年4月にジョージ川口、小野満、鈴木章治らジャズミュージシャンで結成する「三木鶏郎楽団」を加えて「三木鶏郎グループ」となった[1]。同年6月6日、同グループに三木のり平が加入した[1]。同年10月には、丹下キヨ子、千葉信男、小野田勇らが「三木鶏郎グループ」に加わっている[1]。 1947年(昭和27年)10月5日、NHKラジオの番組『日曜娯楽版』が放送開始され、2週目の同月12日から、「三木鶏郎グループ」は出演を開始する[1]。翌1948年(昭和23年)2月1日、「三木鶏郎グループ」が池袋文化劇場を経営を開始、旭輝子、有島一郎らが加入している[1]。同年3月1日、楽器が焼失し、「三木鶏郎楽団」が解散した[1]。 1950年(昭和25年)、新宿ムーランルージュ出身の小崎政房らが、吉本興業資本の東京の映画会社太泉映画(現在の東映の前身のひとつ)で製作した映画『なやまし五人男』と『オオ!! 細君三日天下』、大映京都撮影所が製作した『狸銀座を歩く』に「三木鶏郎グループ」が出演した[1]。同年春、三木のり平が脱退する[1]。 1951年(昭和26年)8月31日、三越名人会に出演後に、「三木鶏郎グループ」は解散した[1]。 おもなテアトログラフィ
フィルモグラフィ
ラジオ出演関連事項註 |
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