七将七将(しちしょう)は、豊臣秀吉子飼いの7人を指す。一般的には、 以上7人らが挙げられ、これを七将と称している。これは『関ヶ原始末記』を典拠とした説で、『徳川実紀』などでも同様の構成である。『慶長年中卜斎記』では池田輝政が消えて脇坂安治が加えられている。1599年(慶長4年)閏3月5日付徳川家康書状の宛所と比べてみると池田輝政と加藤嘉明が除かれ、新たに蜂須賀家政(阿波徳島城主)、藤堂高虎(伊予宇和島城主)が加えられている[1]。これら4点の出典は、いずれも7人と変わらないため、従来の研究はメンバーを特定できないままに員数を無批判に固定して捉え七将説を生み出したといえる[1]。 『義演准后日記』の慶長4年閏3月10日条には、石田三成の佐和山城隠居にかけて、「大名十人とやらん、申し合わせて訴訟すと云々」と記されている。この数字は上記の10人(七将+脇坂安治、蜂須賀家政、藤堂高虎)に該当するのではないかとされ、そうであれば七将にこだわる謂れがない以上、三成襲撃=失脚を画策したのもこの10人と考えたほうがより客観的といえる[1]。
石田三成襲撃事件七将の三成邸襲撃秀吉の死後、豊臣政権内において七将をはじめとする武断派と、石田三成など行政を担当する文治派の対立が表面化する。五大老の1人前田利家は二派の調停に努めたが、1599年(慶長4年)閏3月3日に死去した。利家の死去によって両派の対立を仲裁するものがいなくなったため、さらに両派の確執が増した。 朝鮮出兵における蔚山城の戦いの査定などで、以前から三成派に恨みを抱いていた武断派は、大坂城下の加藤清正の屋敷に集合し、そこから三成の屋敷を襲撃し、三成を討ち取る計画を立てた。しかし三成は豊臣秀頼に侍従する桑島治右衛門の通報によりそれを察知し、島清興らとともに佐竹義宣の屋敷に逃れた。なお、七将は常に家康の同意を仰ぎ、七将の行動はあくまでも家康に容認された範囲に限られており[2]、この事件は私戦でなくこれまでの政争の一環として展開されていて、事件の対立構造は七将と三成ではなく、徳川方と反徳川方勢力だったとする指摘もある[3]。 三成の伏見逃亡七将は屋敷に三成がいないと分かると、大坂城下の諸大名の屋敷を探し、佐竹邸にも加藤軍が迫った。そこで三成一行は佐竹邸を抜け出し、京都の伏見城に自身の屋敷がある事を活かして立て篭もった。 このとき三成が徳川家康の屋敷に逃げ込んだという逸話が多くの史書や論書において記載されているが[4]、同時代資料の『慶長見聞書』や『板坂卜斎覚書』には見られない。この逸話の初見は、元禄末年から宝永初年頃に大道寺友山が記した『岩渕夜話』である[4]。ただし友山は享保年間に記した『落穂集』において、伏見の三成の屋敷に戻ったと記している[4]。参謀本部編纂の『日本戦史 関原役』では「(佐竹義宣が)三成を擁し伏見に還り家康に投ず」と記述されている[4]。この記述は「三成は(佐竹義宣に伴われて)伏見の家康の保護下におかれた」とも解釈できる文章であり、徳富蘇峰は『関原役』においてこの記述を踏襲し、「(佐竹義宣が)家康に託した」と記している[4]。一方で、七将に対し家康が出した書状に「此方ぇ被罷越候」という記述があることから、家康邸に三成がやってきたのは史実だという主張もある。笠谷和比古はこれに対し、「此方ぇ被罷越候」は七将らの行動を指すものだとしている[4]。 家康の調停と三成の失脚翌日、伏見城も武断派に取り囲まれることとなるが、伏見城下で政務を執っていた徳川家康より仲介を受ける。七将が家康に三成を引き渡すように要求したが、家康は拒否した。家康はその代わり三成を隠居させる事、及び蔚山城の戦いの査定を見直しする事を約束し、次男・結城秀康に三成を三成の居城・佐和山城に送り届けさせた。三成を失脚させ、最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正統性)が得られることになり、家康の評価も相対的に高まることになったと評価されている[5]。これに対して、家康と三成の関係は常に対立一辺倒ではなく両者が協調を模索している時期もあり、家康は双方に対して中立的に事態を解決しようとしたが、結果的にその振舞いが却って双方の対立を悪化させたとする見方もある[6]。 慶長4年閏3月9日付大谷吉継書状黒印状が2018年に史料紹介された。七将による襲撃事件について、その主導権を握った徳川家康の裁定を支持し、最大級の賛辞を贈っているとし、大谷吉継と家康は関係が良好であったことが分かると指摘されている[7]。なお、この古文書は宛所が欠損している。 上記の解釈に対して、この大谷吉継書状は石田三成に出したものであり、この問題を仲裁した人物に対しての礼状ではないことは明白であるとする反論がある[8]。 佐和山での別れ際に、三成は豊臣秀吉からの拝領品である、当時、武将の間で羨望の的だった名刀・正宗を秀康に譲った。江戸時代、武士の間で「石田三成」の名を口にすることは憚られたが、秀康はこの刀を「石田正宗」と名付けて終生愛用したという。 脚注
参考文献
関連項目 |