大坂藩(おおさかはん)は、江戸時代初期に摂津国東成郡周辺を領有した藩。藩庁は大坂城(大阪市中央区)。
概要
大坂城は天正11年(1583年)に豊臣秀吉によって築城されて以来、秀吉による天下統一、その後のいわゆる「豊臣政権」の中心として機能してきたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い以後は徳川家康が実権を掌握し[1]、それまで天下人の地位を保持してきた豊臣秀頼は摂津・河内・和泉65万7,000石の一大名として押し込められたという解釈においては、大坂藩といえる[2][注釈 1]。
慶長20年(1615年・元和)大坂の陣による豊臣家の滅亡後、伊勢亀山藩より家康の外孫で養子となっていた松平忠明が10万石で入封し、大坂藩が成立した。忠明は大坂の陣で荒廃した大坂の町の復旧に努め、元和5年(1619年)に大和郡山藩に移封となった。大坂藩は廃藩となり、以後は公儀御料として幕府により大坂城代・大坂町奉行が置かれた。幕末となり、将軍徳川家茂や徳川慶喜が一時大坂城に入ったものの、徳川宗家の本拠地として変更されることはなく、廃藩置県まで独立の藩が置かれることはなかった。
歴代藩主
- 豊臣家
摂関家 - 65万7千石
- 松平家(奥平松平家)
譜代 - 10万石
脚注
注釈
- ^ その後も時期によっては摂津、河内、和泉以外の旧蔵入地に介入していた資料も残っており、関ヶ原の戦い後、ただちに政権が徳川に移行したわけではなく、大坂の陣に至るまでの間のある時期までは豊臣家が公儀としての権威を持っていたとする知見もある。また、依然として持ち続けていたとする二重公儀制の説もあるが、説の前提とされている史料や事象そのものに別解釈や比定研究からの批判や疑問が多く存在する。この二重公儀説は笠谷和比古が提唱しているが、藤田達生[3]、本多隆成、渡邊大門[4]はそれぞれに批判・縮小・懐疑的な論を展開しており、森田恭二は、秀頼が朱印状(公文書)を発給した形跡が確認できないことから、権威的な側面としてはともかく秀頼による政権としての実務的実態は無かったとしている[5]。
出典
- ^ 朝尾直弘『天下一統』〈体系日本の歴史8〉小学館、1988年。
- ^ 岡本良一「大坂藩」『国史大辞典』吉川弘文館。
- ^ 藤田達生『日本近世国家成立史の研究』校倉書房、2001年。
- ^ 渡邊大門「二重公儀体制について」『大坂落城 戦国終焉の舞台』角川選書、2012年、pp61-64。
- ^ 森田恭司「豊臣秀次・秀頼の政権と印判状」『戦国期 印章・印判状の研究』岩田書院、2006年、pp273-295。
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藩庁の置かれた地域を基準に分類しているが、他の地方に移転している藩もある。順番は『三百藩戊辰戦争事典』による。 明治期の変更: ★=新設、●=廃止、○=移転・改称、▲=任知藩事前に本藩に併合。()内は移転・改称・併合後の藩名。()のないものは県に編入。 |