豊臣秀勝

 
豊臣 秀勝 / 羽柴 秀勝
時代 安土桃山時代
生誕 永禄12年(1569年
死没 天正20年9月9日1592年10月14日
改名 小吉(幼名
別名 通称:丹波少将、大柿少将、丹波中納言、岐阜中納言
戒名 光徳院陽巖[1]
墓所 善正寺
官位 侍従、左近衛権少将[注釈 1]
従四位下参議正三位中納言
主君 豊臣秀吉
氏族 木下氏→三好氏→羽柴氏豊臣氏
父母 父:三好吉房、母:瑞龍院日秀
養父:豊臣秀吉
兄弟 秀次秀勝秀保
義兄弟:秀勝(石松丸)鶴松秀頼秀勝(於次丸)秀俊豪姫秀家秀康
浅井長政の三女)
完子秀弘
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豊臣 秀勝(とよとみ ひでかつ / とよとみ の ひでかつ) / 羽柴 秀勝(はしば ひでかつ)は、安土桃山時代武将大名豊臣秀吉の姉である瑞龍院日秀三好一路の次男で、秀次の弟、秀保[注釈 2]の兄。

幼名小吉(こきち)[2]。他の秀勝との呼び分けとして、史家は便宜上、小吉秀勝(または三好秀勝)と呼ぶことがある。しばしば於次秀勝[注釈 3]と混同され[3]、丹波少将や丹波中納言という同じ通称が用いられ、岐阜中納言とも呼ばれた。岐阜宰相とも言われるがこれは間違いで[4]、遺領を継いだ織田秀信(三法師)が同じく称されたものとの混同である[5]

生涯

三人目の秀勝

永禄12年(1569年)、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の姉日秀(とも)と三好吉房の次男として生まれた。幼名は小吉。

奈良興福寺の『多聞院日記』によれば、小吉は隻眼(片目)であったというが[6][7][2]福田千鶴はこれは誤りで『秀次の「一腹」』と史料にあるものを「一眼」と誤読したものであると主張している[8]

秀吉の養子となった時期は不明であるが、天正13年(1585年)12月に羽柴秀勝(=於次秀勝[注釈 3])が病死した直後(つまり天正14年)と考えられている[6][9]。一説には、小吉は於次秀勝の諱と共に官位を所領とを受け継いだと言い、同じく丹波亀山城[注釈 4]となって、左近衛権少将にも任じられたので、「丹波少将」と呼ばれ、史料においてしばしば両者の混同が見られる[2]。一方で、片山正彦は天正13年9月に出された摂津国安岡寺宛の安堵状と同月に同国富田宿に出された禁制[注釈 5]に小吉秀勝と署名されたものが現存していることから、天正13年12月に没したとされる於次秀勝と小吉秀勝の2人の秀勝が、少なくとも数か月間は同時に存在していたのではないかと指摘している[注釈 6]

天正13年9月4日、秀吉の勘気を被った加藤光泰改易蟄居となったので、没収された大垣城一柳直末が移り、直末の近江勢田城が(まだ於次秀勝は存命時だが)小吉秀勝に与えられた[11]。同月18日に小吉秀勝は摂津安岡寺の寺領に安堵状を出している[12]

なお、於次秀勝とは異なり、跡取りとは見なされておらず、後に小吉秀勝の兄秀次が秀吉の養嗣子となっている。

兼見卿記』の天正13年10月20日条によると、同年10月18日頃、江(崇源院)[注釈 7]を正室に迎えたとされるが、時期には異説がある。吉田兼見はこれを「羽柴秀勝」の婚儀と書いているが、於次秀勝がこの頃にはまだ存命であったはずであり、よって2人の結婚は翌年以降か、文禄元年(1592年)2月とする説が有力とされているが[14]、であるとすると、わずか1ヶ月の新婚生活で1児をもうけたことになるので、小吉秀勝が養子となった時期と同じと推定して、天正14年とする説や[15][9]、前述の片山説を採用した場合には、すでに小吉秀勝を名乗っていたはずであるから矛盾はない[注釈 8]として、天正13年に正室を迎えていたとする説もある。

豊臣家の公達 

天正15年(1587年)3月1日、九州の役に秀勝は本役の人数である5,000人を率いて従軍した[17]

秀吉の本隊は赤間関(下関市)から小倉に上陸し、29日に長野種信の豊前馬ヶ岳城を落として入城した。31日、秀勝・蒲生氏郷前田利長は、島津側の秋月種実配下の熊井久重の守る岩石城(巌石城)の監視を命じられた。軍議において蒲生氏郷・前田利長が交通の要衝である岩石城を攻め落とさせてくださいと秀吉に要請したので、これが了承されて、秀勝がその攻撃の総大将に任じられた[18]。4月1日、蒲生隊2千余(1,700[19])と前田隊3千が奮戦し、秀勝隊は予備に回って助勢して、城は力攻めによって落とされた[20]。岩石城攻めの戦功は総大将である秀勝のものと帰した[18]。その後、5月8日に島津義久が剃髪して秀吉に降って戦役は終わった。

帰途である6月19日、博多で秀勝がフスタ船を見学していると、彼が関白の甥であることを知った副管区長が(日本語のできる)ルイス・フロイスに応対させたところ、秀勝はヨーロッパの事物に興味を持って長時間に渡って話し合った。秀勝は司祭に感謝の印に銀棒4本を贈り、デウス(天主)についてもっと聞きたいから修道士を送るようにと依頼した。同日、秀吉はバテレン追放令を出しているが、これはキリスト教そのものは禁止していないので、後日、訪れたレアン修道士(日本人)と夕食を共にしてその話に感化された秀勝は、重臣6、7名に洗礼を授けてもらいたいと申し出ている[21]。秀勝がキリシタンになりたがっていた話はフロイスの書簡等にも度々書かれているが、彼本人に関しては実際に入信したのかどうかは不明である。バテレン追放令に従えば、それには秀吉から許可を得る必要があった。

同年7月26日、侍従に叙された[22]。同年10月1日の北野大茶会では、北野天満宮の拝殿(12畳分)を3つに区切ったうちの3番で、織田有楽斎・秀勝・蜂屋頼隆宇喜多秀家細川忠興と列して茶を献じた[23]

天正16年(1588年)、兄秀次に1年遅れて豊臣姓を下賜された[24]。4月、後陽成天皇聚楽第行幸の際に諸大名23名のひとりとして起請文に連署した[25]。このときの署名は「丹波少将豊臣秀勝」となっており[26]、このときまでに叙任されていたようだ。

天正17年(1589年)5月20日、秀吉は聚楽第の南の三の門内、二町余の白洲の上に隙間なく台を並べると、その上に金子4,900枚銀子21,100枚(金額にして36万5,000両)を積み上げて、一族・公卿・大名衆に派手に分配したが、秀勝と秀勝の母もこれに預かった[27]

同年10月8日、『多聞院日記』によれば、秀勝は丹波亀山28万石(誤りで実際には10万石程度であったと推定される)では知行が不足であると秀吉に不平を訴えたため、その怒りを買って所領を没収されて、丹波亀山は豊臣秀長に与えられた[28][18][注釈 9]。この日、先月に蜂屋頼隆が子を為さずして亡くなり断絶していたため、その遺領のうち5万石と私財の全てを秀勝が引き継ぐことにすると秀吉は決めて、減封された秀勝は敦賀城主とされた[29][28][30]。ただし後年の史料には同年、秀吉は敦賀城を大谷吉継に与えたとあり、実際には実行されなかったらしい[31]

天正18年(1590年)、小田原の役に第三陣の一つとして従軍。陣立書によると秀勝は2,800人を率いたが[32]、「大柿少将」と書かれており、前年に一柳直末が軽海西城に移った後に大垣城に入っていたようだ。本役の人数であるから知行高は4万石と推定され、大垣領にだいたい符号する。

秀勝は、3月29日の山中城攻めに参加して、寄せ手の大将の豊臣秀次(実兄)と共に中軍を形成した[33]。早朝より岱先出丸に対して先鋒衆(中村一氏堀尾吉晴・一柳直末・山内一豊田中吉政)が正面から猛攻撃して、直末は戦死するが、未完成だった出丸は数時間で陥落して、北条方の援将間宮康俊は切腹した。豊臣勢が二の丸に迫ると、守将北条氏勝氏成兄弟らは逃亡、本丸に籠もった松田康長の手勢だけが最後まで戦って玉砕した[34]。北条方が退却して小田原城での籠城策をとると、4月5日、包囲網の城北に位置して、秀次と共に落窪山に陣をしいた[28][35]。小田原落城直後の7月13日の論功行賞で、関東に転封される徳川家康の旧領地から、秀勝に甲斐国を与えると決まった[36]

12月3日、甲斐国(と信濃国の一部)に移封となり[37]、甲斐の府中(躑躅ヶ崎館[注釈 10]に移った。秀勝の甲斐支配は8ヶ月あまりであるため甲斐・信濃支配の残存史料は少ないが、甲斐では郡内地方や河内における検地の実施を試みており、大泉寺の諸役免除[41]など寺社への寺領安堵や禁制、中道往還の右左口に対する諸役免許の発行[42]、などの行政をしている。

天正19年(1591年)、秀勝の母、瑞龍院日秀が甲斐は僻地で遠すぎると太閤秀吉に嘆願を続けたため、3月には美濃岐阜城13万石へと転封となり[5]、甲斐信濃23万石は替わって加藤光泰が入部した。

同年8月に秀吉の嫡男鶴松が死去し、それに伴って11月に兄秀次が秀吉の養嗣子となったので、同月、秀勝も従四位下参議に任じられた。これにより秀勝は「岐阜宰相」と呼ばれるようになったといわれるが、実際には岐阜宰相を名乗った事実はない[4]。12月、秀次はさらに関白に任じられた。また弟の秀保は、これより前の同年1月に豊臣秀長の婿養子となって秀長の娘「おきく」と婚約し、ほどなく旧領大和紀伊を相続して大和中納言と称された。

朝鮮出兵と急死

文禄元年[注釈 11]1592年)に起きた文禄の役では、岐阜兵8,000の兵を率いて、九番隊の大将として出征することになった[注釈 12]。4月24日、壱岐島勝本城が完成したので、肥前名護屋城から秀勝を渡海させて同城に入れ、壱岐にいた細川忠興は対馬に駐屯させた[44]

秀勝は細川忠興と、5月3日に壱岐島から朝鮮国の巨済島に渡った[45]。7月16日付の秀吉朱印状で、巨済島で二箇所に築城するからその監督をするように命じられている[46]。これらの島で半年ほど滞陣していた間、9月初旬に病を発した。秀吉は将士の病気を心配して、同じく病を発した毛利輝元には小早川隆景安国寺恵瓊の求めに応じて曲直瀬道三の渡海を許可し、秀勝には一鷗軒宗虎(いちおうけん そうこ)を派遣して見舞わせると手紙に書いたが、それが届く前、9月9日に秀勝は陣中で病死した[47]。享年24。

秀吉が秀勝の病を知ったのは9月22日以後のことであり、月末になっても京都の秀吉のもとには凶報は届いていなかった。彼の死はあまりに急だったのである[48]

軍監として朝鮮在陣中で帰国途中だった黒田勘解由(如水)が釜山より戻って残務処理をし、その後は奉行衆(増田長盛・大谷吉継・石田三成・加藤光泰・前野長康)の指示で諸大名が合同して秀勝の部隊を受け持って釜山の城を守ることになった[49]。遺領の岐阜城と家臣団、九番隊の指揮権はそのまま織田秀信に与えられることになった[50]

秀勝の遺体は京の嵯峨亀山(右京区)に輸送され、瑞龍院日秀によって善正寺に葬られた。法名は光徳院陽巖。

同年または一説には翌年、小吉秀勝と江の間に完子が産まれた。完子は後の慶長9年(1604年)6月3日に江の実姉である淀殿豊臣秀頼生母)の養女(または猶子)とされて[51]、成長した後に九条幸家(忠栄)に嫁いだ。

未亡人の江は、文禄3年(1595年)9月17日に、秀吉の養女とした上で、天正19年に前妻の小姫(秀吉養女)を失っている徳川秀忠に再嫁した[52]

慶長5年(1600年)、瑞龍院日秀は善正寺を上京区岡崎(現左京区岡崎)に移し、この時に秀勝の墓も移された。しかしこれは豊臣秀次の墓として誤伝されているようで[1]、豊臣小吉秀勝に碑銘の残った墓はない。

系譜

秀勝と江(崇源院)との間に生まれた完子が、藤原氏摂関家九条流九条家の当主九条幸家に嫁いで正室となったが、その子が九条道房であり、崇源院と秀忠の娘・天崇院の子で、外孫にあたる廉貞院は、この九条道房の正室になって、待姫を生んだ。

待姫は九条道房の養嗣子となる九条兼晴鷹司教平の子)の正室となり、九条輔実を生んだ。その後、九条兼晴から数えて9代後の当主九条道孝の娘の節子が大正天皇に嫁いで貞明皇后となったため、現在の皇室・宮家となっている昭和天皇以降の天皇家には秀勝と江の流れを含んでいる。つまり、天皇家は織田信秀・浅井長政・豊臣秀勝・徳川家康の遠い子孫であるといえる。

また、秀弘という息子がいたという説もあり、実際に秀忠から進物を贈られたという話もあるが確証はない。

関連作品

小説
  • 智本光隆『桃山乱戦奇譚 天下人の血』(学研歴史群像新書)
テレビドラマ

脚注

注釈

  1. ^ 叙任時期は明らかではない。於次秀勝との混同という説もあるが、天正16年から17年の間に少将には叙任されたことはほぼ確実。
  2. ^ 豊臣秀長の養子。を「秀俊」とする史料もあるが、秀吉の養子として羽柴秀俊を名乗った小早川秀秋との混同と思われる。
  3. ^ a b 織田信長の四男、秀吉の養嗣子。小吉秀勝より1歳年長と推定されている。
  4. ^ ただし『寛政重修諸家譜』では亀山城主は天正13年7月より前田玄以とされている。
  5. ^ 個人蔵・大阪歴史博物館寄託。
  6. ^ 片山正彦(京都光華女子大学真宗文化研究所学外研究員)は9月の段階で於次秀勝の病が重く、彼の死去を隠す、あるいはそれが公になることを少しでも遅らせる意図があったのではないかとし、その背景に於次秀勝に養女を嫁がせたばかりの毛利輝元への配慮があったのではないかと考えて、それで於次秀勝の存命中に小吉秀勝を名乗らせたのではないかと推測している[10]
  7. ^ 江(ごう)は天正2年に信長の意向もしくは天正11年に秀吉の意向で織田信雄家臣佐治一成に嫁いだとされるが、天正12年(1584年)に一成は没落しており、離縁もしくは破談となっている。なお、江と佐治一成の婚姻は婚約のみで、秀勝との婚姻は実質的に初婚であったという説もある[13]
  8. ^ なお、同日条には吉田兼見が御次(於次秀勝)の見舞いをしたことに関する記述もある[16]
  9. ^ 九州の役の陣立書をみると、秀吉は一門衆から多くの人員を出しており、秀勝の5,000という数字も新領地からの動員に苦労したはずで、秀勝の不平は単にわがままをいったというわけではないようである。百石七人制のため当時の10万石の所領からは7,000が軍役で動員され、出征兵のほか陣夫として2,000が徴用された計算になる。
  10. ^ 躑躅ヶ崎館(甲府市武田)は戦国大名武田氏の居館で、武田氏滅亡後は織田氏・徳川氏によって引き続き支配拠点として利用されていた。徳川氏時代には城下南方の一条小山に総石垣の新城が築城され(甲府城)、秀勝期にも甲府桶大工勝村氏に「当城用所」を命じた文書が残されている[38]。この文書から秀勝期にも築城が開始されていた可能性が考えられているが[39]、この「当城」は武田氏館を指すとする説もある(なお、甲府城の普請は加藤氏、浅野氏により継続され慶長年間には完成をみたと考えられている)[40]
  11. ^ 文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたが、慣例により1592年に文禄を用いる。
  12. ^ この頃、秀吉は甥の秀次に対して、三国分割計画を示しているが、これによると高麗には秀勝か宇喜多秀家を配すると知らせており、つまり秀勝は朝鮮統治予定者の最有力候補に挙げられており、秀吉の天下統治構想に秀勝が、血族としてとりわけ重要な役割を担っていたことが知られる[43]

出典

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  2. ^ a b c 桑田 1971, p. 37.
  3. ^ 渡辺 1919, p.73
  4. ^ a b 宮本 2010, p. 141-147
  5. ^ a b 渡辺 1919, p. 75.
  6. ^ a b 渡辺 1919, p.72
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  8. ^ 福田 2010, p. 74.
  9. ^ a b 福田 2010, p. 75.
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  12. ^ 大日本史料11編20冊320頁.
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  14. ^ 小和田哲男『戦国三姉妹物語』角川書店、1997年。ISBN 4047032867 
  15. ^ 滝田英二『国立国会図書館デジタルコレクション 常滑史話索隠』1965年、77頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2991503/50 国立国会図書館デジタルコレクション 
  16. ^ 片山 2017, p. 164-165.
  17. ^ 小和田哲男 著、杉山博; 渡辺武; 二木謙一 編『豊臣秀吉事典』新人物往来社、2007年、307頁。ISBN 9784404034687 
  18. ^ a b c 渡辺 1919, p. 73.
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  22. ^ 福田 2010, p. 84.
  23. ^ 徳富 1920, p. 469.
  24. ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒澤史学』49号、1996年。 
  25. ^ 徳富 1920, p. 489.
  26. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション 群書類従 第47-48冊(巻40-41)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559080/77 国立国会図書館デジタルコレクション NDLJP:000003281940
  27. ^ 徳富 1920, pp. 32–33.
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  29. ^ 渡辺 1919, p. 74.
  30. ^ 史料綜覧11編912冊251頁.
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  32. ^ 杉山ほか 2007, p. 309.
  33. ^ 徳富 1920, p. 132.
  34. ^ 徳富 1920, pp. 132–134.
  35. ^ 徳富 1920, pp. 142–143.
  36. ^ 徳富 1920, p. 314.
  37. ^ 史料綜覧11編912冊317頁.
  38. ^ 『山梨県史』 資料編8 近世1 領主、1997年。 
  39. ^ 平山優「甲府城の史的位置-甲斐国織豊期研究序説-」『山梨県立考古博物館・山梨県埋蔵文化財センター 研究紀要9 10周年記念論文集』1993年。 
  40. ^ 数野雅彦 著「甲府城築城関係史料の再検討」、羽中田壯雄先生喜寿記念論文集刊行会 編『甲斐の美術・建造物・城郭』岩田書店、2002年。 
  41. ^ 史料綜覧11編912冊317頁.
  42. ^ 天正18年9月付羽柴秀勝黒印状(山梨県立博物館寄託「右左口口遊文書及び関連資料一括」)
  43. ^ 宮本 2010, p. 137-138.
  44. ^ 史料綜覧11編912冊353頁.
  45. ^ 徳富猪一郎国立国会図書館デジタルコレクション 豊臣氏時代 丁篇 朝鮮役 上巻』 第7、民友社〈近世日本国民史〉、1935年、432頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223744/236 国立国会図書館デジタルコレクション 
  46. ^ 福田 2010, p. 86.
  47. ^ 徳富猪一郎『国立国会図書館デジタルコレクション 豊臣氏時代 戊篇 朝鮮役 中巻』 第8、民友社〈近世日本国民史〉、1935年、95-97頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223757/61 国立国会図書館デジタルコレクション 
  48. ^ 福田 2010, pp. 86–87.
  49. ^ 渡辺 1919, pp. 76–77.
  50. ^ 福田 2010, p. 87.
  51. ^ 大日本史料12編2冊288頁.
  52. ^ 福田 2010, pp. 107, 114.

参考文献

関連項目