ヴィヤンコージー
ヴィヤンコージー(マラーティー語:मराठी, Vyankoji, 1629年 - 1684年頃)は、南インドのタミル地方、タンジャーヴール・マラーター王国の君主(在位:1675年 - 1684年)。ヴェンコージー(Venkoji)、エコージー(Ekoji)とも呼ばれる。 生涯1629年、ビジャープル王国のマラーターの家臣シャハージーの息子として生まれた[1]。のち、父はアフマドナガル王国へと移った。 1636年に父がアフマドナガル王国からビジャープル王国へ亡命することとなり、彼はビジャープルで育つこととなった。 1664年1月23日、父シャハージーが事故で死亡し、バンガロールを中心とした南インドの広大な封土(ジャーギール)は、異母兄シヴァージーが当時王国に反乱を起こしていたため、ヴィヤンコージーがその相続するとなった[2]。だが、のちにこの相続をめぐり、ヴィヤンコージーはシヴァージーと争うこととなる。 タンジャーヴールの占拠1673年9月、タンジャーヴール・ナーヤカ朝がマドゥライ・ナーヤカ朝に滅ぼされたのち[2]、マドゥライ・ナーヤカ朝は王弟アラギリ・ナーヤカに統治させたが、タンジャーヴール・ナーヤカ朝の一族チェンガマラ・ダーサの反抗を受けた。 1675年にチェンガマラ・ダーサがビジャープル王国に援助を求め、ビジャープル王国の宮廷は援軍の派遣を派遣を決めて、バンガロールのヴィヤンコージーに出兵を要請した。 同年あるいは1676年1月12日[3] [4]、ヴィヤンコージーはアラギリ・ナーヤカを破り、タンジャーヴールを占拠したが、ビジャープル王国に命じられていたにもかかわらず、チェンガマラ・ダースを王位につけず、自らがタンジャーヴールのラージャ(王)だと宣言した。その理由としては、ヴィヤンコージーがチェンガマラ・ダースに戦費を要求した際、それを拒否したからだという。 ここに、ヴィヤンコージーを祖とした、南インドのマラーター国家である、タンジャーヴール・マラーター王国が成立した[5]。だが、ヴャンコージーはタンジャーヴールの支配者を宣言したものの、ビジャープル王国の忠実な家臣であるとも宣言した。 シヴァージーとの争いだが、ヴィヤンコージーは父の死後、兄シヴァージーとの跡目をめぐって、長く確執が生じていた[5]。 1677年、兄のシヴァージーはカルナータカ地方へと遠征し、ヴィヤンコージーを屈服させ、タミル地方の重要都市でかつてシェンジ・ナーヤカ朝の首都であったシェンジを奪った[5]。その際、マラーター王である兄に貢納を誓わなければならなかった。 しかし、1680年にシヴァージーが死ぬと、ヴャンコージーはその後継者サンバージーに対して貢納を停止した。 死亡年に関する謎ヴィヤンコージーの没年は謎に包まれており、いつごろ死亡したのかは不明である。 1684年あるいは1685年1月[1]にヴィヤンコージーは死亡したというのが一般的だが、ウィルクスという学者は1686年から1687年まで生きていたと主張している。 また、1699年から1700年にかけて、イギリス東インド会社の記録はエコージーと呼ばれる王に関して言及している。 そのため、1684年にヴィヤンコージーは退位し、シャーフージーに王位を譲り、隠居生活を送ったのではないかと言われている。 文学者としてヴィヤンコージーの治世はサンスクリット語とテルグ語の文学が栄え、彼自身もラーマーヤナのテルグ語版を作成したと伝えられている。 脚注参考文献
関連項目 |
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