ローズ・ベルタンローズ・ベルタン(仏: Rose Bertin, 1747年7月2日 - 1813年9月22日)は、フランスのモード商[1](ファッションデザイナーの先駆で、服飾品商人・仕立屋などを兼ねる職業)。マリー・アントワネットに重用され「モード大臣」(ministre des modes)と呼ばれた[1][2][3]。 「ローズ・ベルタン」は後世の愛称[4]。本名はマリー=ジャンヌ・ベルタン(Marie-Jeanne Bertin)[1][3]。 生涯フランスの歴史学者ミシェル・サポリによる詳細な伝記(2010年刊、2012年日本語訳)がある[3][2][注釈 1]。 1747年7月2日、毛織物工業の街アブヴィルの平民の家に生まれる[6]。少女時代、親戚のモード商バルビエ女史の店で見習いとして働く[7]。 1766年ごろ、アブヴィルからパリに移り、おそらくバルビエ女史が紹介した店のお針子となる[8]。当時のパリには地方出身のお針子が多く、後にベルタンのパトロンとなるデュ・バリー夫人(ルイ15世の公妾)もその一人だった[9]。1768年ごろ、著名なモード商マダム・パジェルが経営するサントノレ通りの「トレ・ガラン」(Trait Galant、”優雅な顔立ち”[注釈 2])の店員となり、1769年4月5日、シャルトル公爵夫人の結婚式衣装を担当し評判を呼ぶ[11]。1773年10月24日、自身が経営する「オ・グラン・モゴル」(Au Grand Mogol[12]、”ムガル帝国”[13][注釈 3])をパレ・ロワイヤルそばに開店[14]。「ケサコ」「サンティマン・プフ」などの奇抜な髪型を考案し、パトロンのシャルトル公爵夫人やデュ・バリー夫人を通じて宮廷内に流行させる[15]。 1774年5月10日、ルイ16世が王位につき、マリー・アントワネットが王太子妃から王妃になる[16]。同年6月ごろ、マルリー離宮にてシャルトル公爵夫人の紹介のもと、ベルタンとアントワネットが初対面する[15]。以降、アントワネットは王室の規則(エチケット)を逸脱して平民のベルタンを重用し、大量の商品を購入して流行の最先端となる[17]。ベルタンは王妃の庇護のもと、1776年新設のモード商協同組合の初代代表となり[18][1]、1778年には「モード大臣」の称号を下賜される[17]。この頃ベルタンが手掛けたものとして、窮屈なパニエを廃した「ポーランド風ドレス」やアントワネットのマタニティドレス、「イギリス風大帽子」「蚤色ドレス」などがある[19]。 アントワネット以外にも、プロヴァンス伯爵夫人(後のルイ18世夫人)、アルトワ伯爵夫人(後のシャルル10世夫人)、エリザベート王女(ルイ16世の末妹)、マダム・ロワイヤル(ルイ16世の長女)といった王侯貴族や、オペラ歌手・サロン主宰者など、各界の著名人がベルタンの顧客になった[20]。ベルタンの衣装は大半が女性用だったが男性用もあり、1777年にはシュヴァリエ・デオンの女性装も手掛けた[21]。国外の顧客も多く、店がグランドツアーの訪問地の一つになっていた[22]。モード商の頂点に立ちながらも、ライバルとの対決やゴシップに見舞われることもあった[23]。 フランス革命期には、1793年の処刑の年まで、タンプル塔のアントワネットに衣装を納品し続けた[24]。10月の処刑時には亡命先のイギリスにいた[25]。テルミドールのクーデタ後の1795年、パリに帰還しテレザ・カバリュスらを顧客としたが、次第に過去の人となり、1813年9月22日に病没した[26][3]。生涯独身だった[27]。 名言「新しいものとは忘れられたものに他ならない」("Il n'y a de nouveau que ce qui est oublié")という名言が、1785年アントワネットにドレスを贈った際の言葉として伝わる[28]。 関連項目
登場作品主役脇役
脚注注釈出典
参考文献
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