ロベルト・ベッテガ
ロベルト・ベッテガ(Roberto Bettega、1950年12月27日 - )は、イタリア・ピエモンテ州トリノ出身の元サッカー選手。ポジションはFW。1970年代のユヴェントスを象徴する選手。 クラブ経歴父親はFIATで働き、母親は小学校の教師をしている中流階級の家に生まれた[2]。7歳の頃トリノダービーを見てユヴェントスの大ファンになり、サッカー選手を夢見るようになった[2]。父親に連れられて、ユヴェントスのトレーニングスクールに通うようになると、13歳の頃には体格に恵まれ、テクニックもあり目立つ存在となっていた[2]。この頃はMFとしてプレーしていたが、1964-65年にかけてFWとしてプレーするようになった[2]。1968-69シーズンの終わり頃にはトップチームに加えられたが、1969-70シーズン、経験を積ませるため、当時セリエBのヴァレーゼへとレンタルに出され、ウイングとして実力を証明、30試合で13得点を挙げた[2]。 1970-71シーズンからユヴェントスのレギュラーとして活躍、1970年9月27日のカターニャ戦でセリエAの舞台にデビューし、初得点も決めた[2]。このシーズンのリーグ戦28試合で13ゴール、公式戦全体では46試合で22得点を記録した[2]。1971-72シーズン、この年のリーグ戦、14試合で10得点を挙げていたが、12月以降、呼吸器系炎症性疾患により約8ヵ月間の長期欠場を余儀なくされた[2]。それでもチームはスクデットを獲得した[2]。その後の3シーズンは二桁ゴールに届かずに終わった[2]。その後、1975-76シーズン以降、再びリーグ戦で二桁ゴールを記録するようになった[2]。1976-77シーズンにUEFAカップで優勝した。 その後もユヴェントスの中心選手としてピッチに君臨した。1979-80シーズンにはセリエA得点王に輝いた。しかし1981-82シーズンは、11月の怪我で殆ど出場出来ずに終わった[2]。1982-83シーズンのチャンピオンズカップでは決勝に進んだが、ハンブルガーSVに敗れ準優勝に終わった[2]。ユヴェントスでは、7度のリーグ優勝、2度のコッパ・イタリア優勝、1度のUEFAカップ優勝をチームにもたらした。1977年、1978年にはバロンドール投票でそれぞれ4位に入った[2]。 1983年から2年間、トロント・ブリザードでプレーし、33歳で現役を引退[2]。 代表経歴イタリア代表としては、1975年6月5日にフィンランド戦でデビュー[2]。1978年のワールドカップアルゼンチン大会において1次リーグのハンガリー戦、アルゼンチン戦でそれぞれ1ゴールを挙げた[2][3]。1980年のUEFA欧州選手権にも出場したが、1981年11月の怪我により、エンツォ・ベアルツォット代表監督は最後メンバーを決めるぎりぎりまで、回復を待ったが、回復せず、ワールドカップ・スペイン大会に出場出来なかった[2]。 その後引退後、ユヴェントスの副会長を務めていた時、ジネディーヌ・ジダンの才能に惚れ込み、獲得を進めた[2]。カルチョ・スキャンダルが発覚すると、その解決のために奔走し、騒動終結後にユヴェントスの副会長の座を辞した[2]。このスキャンダルで唯一潔白となった人物であった[2]。 息子のアレッサンドロ・ベッテガもサッカー選手である。 タイトル個人成績
代表歴
出典
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