レッド・ガーランド
レッド・ガーランド (Red Garland、1923年5月13日 - 1984年4月23日)は、ジャズ・ピアニスト。デビュー前にはプロボクサーでもあった。本名はウィリアム・マッキンリー・ガーランド・ジュニア(William McKinley Garland, Jr.)で、出身地はアメリカ・テキサス州ダラス。1945年よりテキサス州で、1946年よりニューヨークで活動を始め、1955年にリズム・セクションを率いて参加したマイルス・デイヴィス・クインテットにおいて国際的な名声を得た。ブロック・コードなどを演奏スタイルの特徴とする[2]。 生涯ウィリアム・マッキンリー・ガーランド・ジュニアは、エレベーター操縦士のウィリアム・ガーランドの息子として[注 1]、1923年5月13日にテキサス州ダラスで生まれた。高校時代にはクラリネットとアルト・サクソフォーンをバスター・スミスから習った[3]。ピアノを始めたのは兵役中の18歳のときで、その後ジョン・ルイスとリー・バーンズ(Lee Barnes)から指導を受けている[3][1]。また、ガーランドは音楽家として活動を始める前に、ライト級のプロボクサーとして35試合を戦っている[3]。 1945年にテキサス州フォートワースで演奏をおこなった後、トランペット奏者のホット・リップス・ペイジに雇われた。1946年にニューヨークに移りビリー・エクスタインのビッグ・バンドに参加、翌年から1947年まではペンシルバニア州フィラデルフィアのダウン・ビート・クラブ(Down Beat Club)の専属ピアニストを務め、チャーリー・パーカーやマイルス・デイヴィス、トランペット奏者のファッツ・ナヴァロらとの共演を経験した。その後、コールマン・ホーキンスやロイ・エルドリッジ、レスター・ヤングらと共演するとともに、マサチューセッツ州ボストンでトリオを結成した[3]。 『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』のセッションを含む1955年から1958年にかけてのマイル・デイヴィス・クインテット(後にセクステット)におけるプレスティッジ・レーベルでの活躍は、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズとともにガーランドに国際的な名声をもたらした[3][4]。同時期には同レーベルから『レッド・ガーランズ・ピアノ』などのトリオでの作品や、ジョン・コルトレーンとドナルド・バードを含むクインテットでのリーダー作(『オール・モーニン・ロング』『ソウル・ジャンクション』)も発表しており、アート・ペッパーの『アート・ペッパー・ミーツ・ザ・リズム・セクション』(コンテンポラリー)にも参加している。このような活躍の一方で、この時期のガーランドはヘロイン中毒にも陥っており、一時マイルス楽団における地位をトミー・フラナガンに取って代わられることもあった。また、同楽団においてはソロの機会が少ないことに不満を持ち、ビル・エヴァンスにその地位を譲った時期もあったが、1959年のウィントン・ケリーの加入まで楽団に断続的に参加した[3]。 1960年代前半はフィラデルフィアで活動していたが、1965年の母の死を機に父の住むダラスの実家に戻り、その後リリーという女性[注 2]と結婚し2子をもうけ、薬物中毒に疲弊していたこともあり、私生活に身を捧げるようになった。1969年以降は、サクソフォーン奏者のマーチェル・アイヴリーとの共演のほか、地元のクラブへの出演を中心に活動していた。1970年代前半には、『ザ・クオータ』などの作品を発表しており、ジェイムス・リアリィ、エディ・マーシャルとともに地元でトリオも組んでいたが、1975年から1976年にかけて一時活動を休止している。その後は『レッド・アラート』(ギャラクシー、1977)などのアルバムを発表し、ジョーンズやベーシストのボブ・カニングハム、ベン・ライリー、ジョージ・ムラーツ、アル・フォスターらと共演している[3]。 1984年4月23日に、心臓病によりダラスの自宅で死去し、ダラスのリンカーン記念公園に埋葬された[3][5]。最後のパフォーマンスは、1983年6月のニューヨーク市グリニッジ・ヴィレッジのラッシュ・ライフ(Lush Life)におけるものだった[5]。 演奏スタイル
レッド・ガーランドが最初期に影響を受けたのは、カウント・ベイシーとナット・キング・コールであり、その後、ニューヨークにおいてはバド・パウエルとアート・テイタムに強い印象を受けた[4]。マイルス・デイヴィス楽団で活躍していたころには、アーマッド・ジャマルのブロック・コード[注 3]の影響を強く受けていた。 ディスコグラフィ
脚注出典参考資料
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