バド・パウエル
バド・パウエル(Bud Powell 本名:アール・ルドルフ・パウエル(Earl Rudolph Powell), 1924年9月27日 - 1966年7月31日)は、アメリカ合衆国のジャズ・ピアニスト[1]。ビバップスタイルの第一人者[1]。技巧的なピアノ・プレイにより「ピアノのチャーリー・パーカー」とも呼ばれた。 来歴1924年、ニューヨークに生まれる。パウエルの祖父はフラメンコ・ギタリストで、父はストライド・ピアニスト、兄のウィリアムはトランペット奏者という音楽一家で育つ。また、弟のリッチー・パウエルや、学友のエルモ・ホープも後にピアニストとして名を成すことになる。バドは最初はクラシックの勉強をしていたが、アート・テイタムらの影響でジャズに興味を持つようになり、15歳になる頃には兄のいるバンドでピアノを弾くようになっていた。 スイング・ジャズ系ピアニストの中でもモダンなスタイルを持つアール・ハインズやビリー・カイルの影響を受けた右手の高速なシングルトーンと、頻繁なコードチェンジに対応するため左手はコードプレーに徹するという、ビバップに最適化された新たな演奏スタイルを確立した。また、同時代のジャズピアニストであるセロニアス・モンクとは深く親交があり、若き日のパウエルはモンクから音楽理論を学んだと言われている。1947年、パウエルはハーレムのバーで喧嘩をして、ビンで顔面を殴られた。彼の論理が意味不明で、一貫していなかったため、パウエルは州立病院に入院させられた。パウエルは人種差別に基づく扱いだと主張した[2]。パウエルはガールフレンドから妊娠を告げられたが、その後、当時流行していた精神疾患の治療、電気ショック療法を受けさせられた。彼は11か月病院に収容され、48年の10月に退院を許された。 1940年代後半から50年代初頭にかけて音楽面の最盛期を迎えるが、50年代中期以降は麻薬やアルコールなどの中毒に苦しみ、精神障害(統合失調症[3])を負う。しかしながら、不調期の録音においても、「クレオパトラの夢」などの鬼気迫る演奏を聴くことができ、これを含めてパウエルの個性として評価する声が多い。 1960年代初頭は本国アメリカに一種のジャズ不況が訪れ、多くのジャズメンがヨーロッパに活動の場を移した時期であるが、パウエルもまたフランスに渡って活動を続ける。映画監督のベルトラン・タヴェルニエは、この時期のパウエルの演奏活動のエピソードを元に、映画「ラウンド・ミッドナイト」を撮影している。良好な環境と好意的な聴衆に支えられて麻薬禍からは脱却するが、既に体はボロボロであり、1966年アメリカに帰国した後にニューヨークで死去。死因は結核、栄養失調、アルコール中毒であったという。 ブルーノート、ルーレット・レコードなどのレーベルに演奏を残す。アルバムの代表作に『バド・パウエルの芸術』『アメイジング・バド・パウエル』『ジャズ・ジャイアント』『ザ・シーン・チェンジス』『バド!』など。作曲も多く、「ウン・ポコ・ローコ」、「クレオパトラの夢」などが知られる。 ディスコグラフィ
初期
ブルーノート・レコード
ヴァーヴ・レコード
出典
外部リンク |