ルノー・21ルノー・21(Renault 21,R21)は、フランスの自動車製造会社、ルノーが、1986年から1994年まで製造・販売していた乗用車である。フランス語では「21」を「ヴァンテアン」(仏: vingt-et-un)と読む。 概要1986年3月に前輪駆動(FF)中型車であるルノー・18の後継型として発売された。基本デザインはイタリアの名門・ジウジアーロが手がけた。当初は4ドアセダンのみで数ヵ月後にステーションワゴン版である「ネヴァダ」(Nevada)(イギリスでの車名は「サヴァナ」/Savanna)が追加された。先代R18では室内の狭さが不評だったこともあり、ホイールベースが約200mm伸ばされクラス随一の室内空間を獲得した。ユニークなことにエンジンによって横置きと縦置きが存在した。その理由は当時のルノーには2.0L以上のエンジンの発生トルクに対応できる横置き用のギアボックスがなかったことが原因。縦置きモデルと横置きモデルではホイールベースが約60mm相違している。エンジンは全て直列4気筒SOHCで、エンジンルームは縦置き、横置きどちらにでも対応できる広さがあった。生産は本国フランスをはじめ、トルコのオヤック・ルノー、コロンビア、中国、アルゼンチン(ルノー・アルゼンチン)、チリ、台湾、ベルギー(RIB)、イラン(サーイパー)と多くの工場で行われた他、当時ルノーが提携していたアメリカのアメリカン・モーターズ(AMC)からもルノー・メダリオンとして1986年の後半に登場したが、翌1987年の8月にルノーはAMCをクライスラーに売却したため「メダリオン」は新たに立ち上がったイーグルブランドに変更され、「イーグル・メダリオン」として販売された。 1989年6月にアウディ・80やプジョー・405といったライバル車が登場して、販売が落ちていたR21はマイナーチェンジにより「フェイズ2」へと進化。ヘッドランプ周り(除くターボ)、テールランプ、空調操作部などが大きく変更されると同時に5ドアハッチバックやビスカスカップリング式四輪駆動である「クアドラ」等を追加。5ドアハッチバックモデルは、フランス国内ですぐにセダンを追い抜き売れ筋モデルとなった。 1992年4月にトリム(グレード)名が変更され、それまでのTX,GTS,TXEなどに代わり新たに下からプリマ(Prima)、マネジャー(Manager)そしてアリゼ(Alize)という名称になり、同時に1.7Lと2.0L 12V、2.0Lターボに三元触媒が装着された。 1993年5月ワゴンのR21 ネヴァダが単に「ルノー・ネヴァダ」と改名される。 1994年に4ドアセダンと5ドアハッチバックは生産を終了し、後継モデルのラグナに引き継がれ、ネヴァダは1995年9月にラグナ・ワゴンが登場するまで継続生産された。累計生産台数は2,096,000台(セダン1,684,000台、ワゴン412,000台)。 主なラインナップ
J7系エンジン以外は横置き。この他にトルコ、ポルトガル、ユーゴスラビア向けに1,400ccがあり、アルゼンチンとコロンビア向けに1,600ccがあり、その他の西欧諸国向けには1,700cc、2,000cc、2,200ccと2,000ccのターボエンジンを積む高性能版に、1,900ccと2,100ccのディーゼルエンジン、2,100ccのターボディーゼルエンジンが用意された。 逸話「21」は、チェコスロバキアで1989年のビロード革命を主導し、チェコスロバキア民主化後最初の大統領、およびチェコとスロバキア分割後のチェコ共和国初代大統領を務めた劇作家のヴァーツラフ・ハヴェルが、自らの意向で大統領公用車として用いた乗用車である。 ビロード革命時に、当時のポルトガル大統領マリオ・ソアレス(自身もまたポルトガルのサラザール独裁政権と戦った人物であった)は革命による民主化支持の意を込め、ハヴェルらに1台のルノー・21TSEを寄贈する手配を行ったが、その21は1989年12月、ハヴェルが大統領に就任した日にようやく首都プラハに到着した。ハヴェルはこの贈り物をいたく喜び、権力的なリムジンの類には見向きもせずに、1.7L前輪駆動の平凡な中型実用セダンである「21」を大統領公用車として用いた。 日本への輸入日本では当時の正規輸入代理店であるJAXによって、全て4ドアセダンボディで2,200ccに4速オートマチックの組み合わせの「TXE」と、2,000ccターボエンジンに5速MTの組み合わせの「ターボ」が輸入、販売されていた。2,000ccターボエンジンに5速マニュアル、駆動方式を4WDとした「ターボクアドラ」(TurboQuadra )も少数輸入、販売された。 関連項目外部リンクオフィシャル
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