リヴォン・ヘルム
リヴォン・ヘルム[1](Levon Helm、1940年5月26日 - 2012年4月19日)は、アメリカ合衆国出身のミュージシャン。ザ・バンドのメンバーとして知られる。オリジナル・メンバー5人中、唯一のアメリカ人である。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第91位[2]。 来歴生い立ち1940年、ヘルムは農家の4人兄弟の2人目の子供としてアーカンソー州に生まれた。ドラマーとしての印象が強い彼だが、最初に手にした楽器は9歳のときに父親が与えたギターであった[3]。 10代の頃、エルヴィス・プレスリー、ジョニー・キャッシュといったアーティストのライブに接しロックンロールに興味を持つようになった[4]。高校在学時にロックバンドを組んでドラムを演奏し始める。 1957年、高校を卒業するとロニー・ホーキンズのバンド、ホークスに加入する[3]。1959年、ホーキンズが拠点をカナダに移すと、ヘルム以外のバンドのメンバーは脱退し、かわりに現地で新たなカナダ人のメンバー4人が加わった。この新生ホークスがのちのザ・バンドとなる。 ザ・バンド→詳細は「ザ・バンド」を参照
ヘルムにロビー・ロバートソン、リチャード・マニュエル、リック・ダンコ、ガース・ハドソンを加えた新生ホークスは、1965年、ボブ・ディランのバック・バンドに抜擢され、ディランとともにツアー活動を行う。ツアー途中、旧来のフォーク・ファンの非難に嫌気が差し、一時グループを離れたが、のち復帰。 1968年には、名称を「ザ・バンド」に変更し、同年『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』でアルバム・デビューを果たした。生まれ育った南部の土着の音楽であるブルースやフォークに通じ、メンバーのまとめ役として重きを成した。主としてドラムとボーカルを担当したが、マンドリンをもこなし、その泥臭くも堅実な音楽性はバンドのサウンドに欠かせないものであった。 1976年、映画にもなった最終公演「ラスト・ワルツ」とアルバム『アイランド』を最後に解散。 ソロ活動とザ・バンド再結成ザ・バンド解散後、ヘルムは、ドクター・ジョン、ポール・バターフィールド、スティーヴ・クロッパー、ドナルド・ダック・ダンらとRCOオール・スターズを結成し、ソロ活動をするようになった。 1983年、ザ・バンドはロバートソン抜きの4人で再結成を行い、ツアーを開始した。ヘルムは再結成後も一貫してメンバーとして活動する。アルバムも1993年の『ジェリコ』をはじめ3枚制作するものの、1999年にリック・ダンコが死去したことに伴いザ・バンドとしての活動は休止状態となった。 1993年、ヘルムはザ・バンドについて綴った『This Wheel's on Fire: Levon Helm and the Story of the Band』(邦題『ザ・バンド 軌跡(音楽之友社』)を出版した。この中で、ヘルムはザ・バンド解散をロバートソンの責任とするなど彼への批判を前面に押し出しており、両者の軋轢が表面化することとなった[5]。 1996年にヘルムは喉頭ガンと診断され、それ以後、歌うことは困難になっていったが、ミュージシャンとしての活動は続け、ドラム、マンドリン、ハーモニカなどを演奏し続けた[3]。 その後、彼の声は奇跡的とも言える回復を見せ、2007年には久々のスタジオ・ソロ作『Dirt Farmer』で元気な歌声を聴かせている。なお、このアルバムは2008年の第50回グラミー賞において、最優秀トラディショナル・フォーク・アルバムを受賞した。 2009年もウッドストックにある自身のスタジオにて、月に数度の「Midnight Ramble Sessions」と銘打つライブ活動を中心に活動した。 2010年には第52回グラミー賞において、『Dirt Farmer』の続編とも言える『エレクトリック・ダート』で最優秀アメリカーナ・アルバムを受賞した。 2012年4月19日、ニューヨークにあるメモリアル・スローン・ケタリング癌センターで死去[6]。71歳没。 俳優としての活動ヘルムは俳優としての活動も活発であり、『エレクトリック・ミスト 霧の捜査線』(2009年)、『ザ・シューター/極大射程』(2007年)、『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』(2005年)、『沈黙の断崖』(1997年)、『ライトスタッフ』(1983年)、『歌え!ロレッタ愛のために』(1980年)など多数の映画に出演している[7]。 ドラマーとしての特徴ヘルムのドラムは、重心の低いどっしりとしたサウンドが特徴である。 一聴するとシンプルなビートでもスネアのゴーストノートを多用していることが多く、他に類を見ない独特のグルーヴを生み出す。 一般的なロック・ドラマーと比べて(奏法としての)クラッシュ・シンバルの使用頻度が低く、オープン・ハイハットをやかましく鳴らし続けるといったこともないため、相対的にスネア、タム、キックが目立っている。 歌えるドラマーとしての評価も非常に高い。 長らくレギュラーグリップを用いたが、晩年はマッチドグリップを用いるようになった。曰く「(手癖で)余計なことをやり過ぎてしまうことを防ぐため」。また、手への負担の軽減の目的もあったようだ。 ディスコグラフィリーダー・アルバム
脚注
外部リンク |
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