ガース・ハドソン
ガース・ハドソン(Garth Hudson、1937年8月2日 - )は、カナダ出身のミュージシャン。アメリカを代表するロックバンド「ザ・バンド」のメンバー。キーボード、シンセサイザー、アコーディオン、サックスなどを担当。 来歴カナダのオンタリオ州ロンドンで生まれ、政府の農業検査官で昆虫学者を父に持つ厳格な家庭で育った。両親とも音楽好きで、ガース自身も幼少の頃から音楽に親しんだ。少年時代には親戚の葬儀屋のオルガンで賛美歌を演奏したり、父親のオルガンを分解しては組み立てなおすなど、オルガンに興味を持っていた。また、家庭教師から正式な音楽教育を受け、バッハ・モーツァルトなどのクラシック音楽にも親しみ、ショパンのピアノ曲を特に好んだ。キーボード・マガジンは、彼をロック界で最もブリリアントなオルガン奏者を評している[1][2]。 本来は父親と同じ道を進むつもりであったが、音楽好きが嵩じてウェスタンオンタリオ大学に入学し音楽理論と和声学を学ぶ。やがて従来の音楽に飽き足らなくなり、ラジオから流れてくるリズム・アンド・ブルースやロックンロールに興味を持つようになる。地元の小さなバンドに入って腕を磨き、1959年頃、ロニー・ホーキンスとバックバンドのホークスに出会う。この時は加入しなかったが、ガースの豊富な音楽の知識に惚れ込んだホークスの一員ロビー・ロバートソンやリヴォン・ヘルムの口利きで1961年、ホークスに加入する(リヴォンの証言では1960年の暮)。この時、バンド入りを両親に反対されるのを恐れ、ガースがメンバーの音楽教師の肩書きで加入しレッスン料をとるという約束が交わされたと、映画『ラスト・ワルツ』でリヴォンが証言している。 ステージでは優れたオルガン演奏を行う傍ら、練習では他のメンバーに演奏技法や編曲などを教えた。初めは彼の真面目な雰囲気は周囲にとけ込めなかったが、だんだん認められバンドに無くてはならない存在となった。「ガースが入ってきてホークスのサウンドはロックンロール・オーケストラのようになった。サウンドがずっと豊かになったのが確実に感じられた」とリヴォンが証言している(リヴォン・ヘルム著・菅野彰子訳「軌跡」1994年 音楽之友社刊より)。リック・ダンコの証言では「オルガンを演奏し始めると、ガースの弾く曲によって、お客は泣いたり笑ったり、シンフォニーのように曲が、色彩豊かになったね」とそのテクニックの巧さをたたえている。当のガースは「俺じゃなくて、ロニー・ホーキンスの名前でお客さんが来てるんだと思ってたんだ。実は俺のほうが客寄せだったんだね。(笑)ただ座ってただけで、別に何もしてなかったのに」と述べている[3]。 1964年、ホークスがロニーから独立しボブ・ディランのバックバンドになってもガースの存在は大きく、ロック色を強めたディランの作品「寂しき4番街」(1965年)「スーナー・オア・レーター」(1966年)や、イギリス公演のライブ・アルバムでは彼の嵐のようなオルガンのサウンドが聞ける。
2作目の『ザ・バンド』では彼の音楽的な重要度が増した。「ラグ・ママ・ラグ」のラグタイム風のピアノ演奏を披露、「ロッキン・チェア」ではアコーディオンを担当するなど多才振りを見せ、「クリプル・クリーク」では当時まだ新しかったクラビネットを演奏している(アルバムのクレジットには、オルガン、クラビネット、ピアノ、アコーディオン、ソプラノサックス、アルトサックス、スライドトランペットを担当するとある)。その腕前は、前述の『ラスト・ワルツ』や残された映像から伺われるが、譜面はおろか盤面を見ずに両手で違った旋律を奏でている。彼がボーカルを担当することはなく、専らバックでキーボードを操ることに専念している。研究熱心で、ツアーやセッションで訪れると必ずショップを訪問し、気に入った楽器や古い音楽の資料を探した。 デビュー当時から老成した感じのするメンバーたちであった。また、シンセサイザーや音楽機器を巧に操作してアルバムのサウンドを作り上げる能力にも長けていた。 1976年のバンド解散まで活躍。1983年にロビー・ロバートソン抜きでザ・バンドを再編成する。このときガースが加入するかしないかで再編成が決まることになっていたという。2002年には、元フライング・ブリトー・ブラザーズのメンバーとブリトー・デラックスを結成した。現在は、コンピューターによる音楽関係の事業、他のミュージシャンのセッションに参加するなど活発な音楽活動を続けている。2023年にはロビー・ロバートソンの死去により、ザ・バンドのメンバーで最後の生き残りとなっている。 ディスコグラフィスタジオ・アルバム
ライブ・アルバム
参加アルバム
脚注
外部リンク
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