メアリー・テューダー (フランス王妃)
![]() ![]() メアリー・テューダー(Mary Tudor, 1496年3月18日 - 1533年6月25日)は、テューダー朝のイングランド王ヘンリー7世と王妃エリザベスの次女で、フランス国王ルイ12世の王妃。フランスではマリー・ダングルテール(Marie d'Angleterre)と呼ばれる。ルイ12世の死後はイングランド貴族の初代サフォーク公チャールズ・ブランドンと再婚した。孫にジェーン・グレイがいる。 概要フランス王妃だったのは3ヵ月だが、公爵夫人となった後も「元フランス王妃」と呼ばれた。そのためメアリーは英語では「クイーン・メアリー」(Queen Mary)と呼ばれる。スコットランド女王メアリー・ステュアート(姉マーガレットの孫、フランス王フランソワ2世の王妃でもあった)やイングランド女王メアリー1世(兄ヘンリー8世の娘、同じくメアリー・テューダー)と時に混同されるので注意を要する。 当時のイングランド国王ヘンリー8世の妹であることから、様々な結婚話があったが、1515年フランス国王ルイ12世と結婚した。このときすでにチャールズ・ブランドンと恋愛中だったメアリーはヘンリー8世に、一度は政略結婚を引き受けるが、夫の死後は好きな人と結婚させてくれるよう約束させる。 当時すでにメアリーの祖父ほどの年齢だったルイ12世は、3ヵ月後に死去した。しかし、ヘンリー8世は最初から約束を守る気などなく、次の結婚を考えていたが、ルイ12世の次のフランス国王フランソワ1世がヘンリー8世とほぼ同年齢でもありライバル心を持っていたため、フランスでメアリーとチャールズ・ブランドンを結婚させてしまう。フランスにチャールズを遣わせた際、妹に求婚しないように誓いを立てさせていたヘンリー8世は怒り狂い、2人がイングランドに帰ることを禁ずるが、後に莫大な金(24000ポンド)を支払って帰国がかなう。 ルイ12世が結婚後わずか3ヵ月で死去したことに関しては、「早く死んでほしいと願っていたメアリーが狩猟や宴を連日催して、年相応のおとなしい生活をしていた夫から体力を奪ったため」という説もある。 メアリー自身は歴史上あまり重要な役割を果たさなかったが、その孫のジェーン・グレイはメアリーの甥であるエドワード6世の遺言により即位し、王位簒奪者として処刑されることとなる。また、ジェーンの妹たちも後にエリザベス1世の次の王位継承候補者となる。 幼き日のアン・ブーリン(ヘンリー8世の王妃)がフランスに渡ったのは、メアリーの侍女としてであったという説がある。 義姉に当たるヘンリー8世妃キャサリン・オブ・アラゴンとは懇意であり、1520年代後半頃、兄がキャサリンと離婚し、アン・ブーリンと再婚し王妃に立てようと画策した際には、ヘンリー8世及びアンと対立し、裁判でもキャサリンを懸命に擁護した。 そのため、ヘンリー8世を支持する夫チャールズとも対立するようになったとされる。結局、キャサリンとヘンリー8世の婚姻の無効が認められ、アン・ブーリンとの再婚が決まり、チャールズ・ブランドンがアンの戴冠式の責任者として多忙を極める最中で死去した。 系図
参考文献
小説
映画
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