ミシェル・デル・ザカリアン
ミシェル・デル・ザカリアン(アルメニア語: Միքայել Տեր–Զաքարյան, ラテン文字転写: Michel Der Zakarian, 1963年2月18日 - )は、ソビエト連邦 (現アルメニア)・エレバン出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。元アルメニア代表。現役時代のポジションはディフェンダー。現在はリーグ・アン・モンペリエHSCの監督を務めている。 現役時代は、ディヴィジオン・アン (フランス1部)のFCナントでプロキャリアを開始し、主にセンターバックを務め、1983年にリーグ優勝を経験。その後、モンペリエHSCに所属した。代表では、育成年代でフランス代表、A代表で1996年からアルメニア代表としてプレーした。 指導者としては、モンペリエの下部組織でキャリアを開始し、ナント、クレルモン・フットを率いた後、2012-13シーズンから再びナントを指揮している。 選手経歴クラブナントトルコ生まれでフランス育ちの父、ギリシャ生まれでアルメニア育ちの母の下、ソビエト連邦のエレバンに生まれるたデル・ザカリアンは、2歳の時に、父が育ったマルセイユに一家で移住[1]し、地元のヴィヴォー・マロニエ (Vivaux Maronniers)、マザルグAS (Mazargues AS)でサッカーを始める[2]。マザルグで1977年にリーグ・ドゥ・ラ・メディララネを獲得する活躍等から、1979年にはFCナントへ引きぬかれると、1980年にリザーブチームでセス・アドンコールとコンビを組んでディヴィジオン3優勝に貢献し、更に1981-82シーズンにはパトリス・リオが負傷した影響によってマキシム・ボシスとコンビを組み、トップチームで公式戦18試合に出場、翌1982-83シーズンはリーグ優勝を経験した。 リオの移籍、アドンコールの逝去によって、1984-85シーズンから定位置を確保し、翌1985-86シーズンはリーグ戦準優勝に貢献。また、同シーズンのUEFAカップ1985-86では準々決勝まで進出しており、FCインテルナツィオナーレ・ミラノとの準決勝2ndレグで得点を挙げたが、退場し、チームは敗退した[3]。ナントで9シーズンに渡ってプレーした後、1988年にモンペリエHSCへ移籍した。 モンペリエモンペリエHSCでは、移籍1季目の1988-89シーズンにすぐさま定位置を確保し、ジュリオ・セザールとコンビを組んでいた[4]が、1989-90シーズンにはローラン・ブランの存在から控えにまわることが多くなり[4]、優勝を果たしたクープ・ドゥ・フランスの決勝戦は未出場だった。翌1990-91シーズンは、移籍したジュリオ・セザルの後釜争いをジャン=マヌエル・テティスと繰り広げながら、リーグ戦20試合、UEFAカップウィナーズカップ 1990-91に3試合出場。オールド・トラッフォードで行われた準決勝のマンチェスター・ユナイテッドFC戦において、膝の靭帯を損傷したにもかかわらず、交代を拒否した。 ブラン移籍後は主将を引き継ぎ、アンジェSCOを3-1で降してクープ・ドゥ・ラ・リーグ優勝に貢献。1994年には、クープ・ドゥ・フランスとクープ・ドゥ・ラ・リーグの2つのカップ戦において決勝戦に到達したが、AJオセール、RCランスに阻まれ準優勝に終わった。翌1994-95シーズンはリーグ戦で17位と低迷した。1995-96シーズンはリーグ戦6位と復調したが、クープ・ドゥ・フランス準決勝において、当時ナショナル (3部)所属のニーム・オリンピック相手に敗退した。1996-97シーズンは、相次ぐ負傷によって3試合の出場に制限され、シーズン中に現役引退した。 代表幼少期にフランスへ移住し、市民権を得ていた[1]ことで育成年代はフランス代表としてプレー[5]し、1980年と1981年の2年連続でUEFA U-18欧州選手権に出場しており、後者ではスペインをPK戦の末に降して3位となった[6]。 A代表としては、1996年から1997年の間に自身のルーツであるアルメニア代表でプレー[1]し、1996年8月に1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選のポルトガル戦で初出場を飾り[5]、以来5試合に出場した。 指導者経歴現役引退後は、まず、モンペリエHSCでテクニカル・スタッフとなり、その後に同クラブのCチームの監督に就任し、翌年にはフランスアマチュア選手権 (4部)に所属するBチームを担当した[7]。2000年にはトップチームのアシスタントを務め、2001年から2006年まで再びBチームを率いた。 ナント2006年7月にFCナントのBチームの監督として古巣に復帰すると、10月にはセルジュ・ル・ディゼ監督からジェルジュ・イオ監督に交代した際、トップチームのアシスタントに就任[8]し、2007年2月12日からは、スポーツ・ディレクターを務めるヤフェット・エンドラムと共同監督となった[9]。チームはリーグ・ドゥへ降格したにもかかわらず、クラブ首脳陣の評価は悪くなかった為に続投となったが、オーナー交代に伴って自身の進退に暗雲が垂れ込めており[10]、最終的にリーグ2位でリーグ・アンへ復帰し、2008-09シーズンも続投する中、2008年8月26日に解任となった[11]。 クレルモン・フット2009年6月1日にディディエ・オッレ=ニコル監督の後釜として、リーグ・ドゥのクレルモン・フットの監督に就任する[12]。クレルモン・フットを率いた3季の間では、2009-10シーズン及び2011-12シーズンに昇格まで迫っていたが、前者では最終日にACアルル=アヴィニョンに敗北して6位でシーズンを終え、後者では勝ち点58の5位に終わった。なお、2011-12シーズンはトロフェ・UNFP・デュ・フットボールの最優秀監督賞にノミネートされ[13]、フランス・フットボール誌の方では受賞した[14]。 ナント復帰2012年6月1日にランドリー・ショーヴァン監督の後釜として、ナントに復帰[15]。就任1季目に3位での昇格へ導き、再び最優秀監督に選出される[16] (トロフェ・UNFP・デュ・フットボールはノミネート[17])手腕でリーグ・アン昇格に導くと、昇格1季目の2013-14シーズンは13位で終了した。 個人成績クラブでの成績
代表での成績出典:[20]
監督成績
出典:[18]
獲得タイトル現役時代
指導者時代
フランス・フットボール誌選定リーグ・ドゥ年間最優秀監督賞 : 2011-12[14], 2012-13[16] 脚注
外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia