フランソワーズ・サガン
フランソワーズ・サガン(Françoise Sagan、1935年6月21日 - 2004年9月24日)は、フランスの小説家、脚本家。本名はフランソワーズ・コワレ(Françoise Quoirez)。ペンネームは、マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』の登場人物 「Princesse de Sagan」から取られた。 略歴ロット県フィジャック近郊カジャルクで生まれた。父親は大手電気会社アルカテル・ルーセントの前身(Compagnie Générale d'Électricité=CGE)の重役、母親は地主というブルジョワ家庭で動物に囲まれて育った。ニックネームは「キキ」(Kiki)だった。一家は第二次世界大戦の間(1939年-1945年)、初期はリヨン、それからドーフィネ地方ヴェルコール(fr)に疎開する[1]。 戦後、家族はパリ17区マルゼルブ大通り(fr)167番地の自宅に戻った[2]。キキは学校生活に馴染めず、17区内の私立ルイーズ=ド=ベティニ校(Cours Louise-de-Bettignies)を3か月も経たずに退学になり8区の私立クヴァン・デ・ゾワゾー女子寄宿学校[注釈 1]に入れられ、さらにドーフィネ地方グルノーブル近郊のカトリック系学校3校で転校を繰り返した頃は「非常に良い子」で過ごした[3][4][5][6]。その後パリに戻ると8区の私立アトメール校(fr)在学中、2度目の受験でバカロレアに合格すると1952年秋からソルボンヌ大学に入学。しかし在籍中は無関心な学生で卒業はしなかったものの[7]、この頃から処女作の『悲しみよこんにちは』を書き始めた[8]。 当時の潮流では女性は結婚するのが当たり前であったが、書くことができなければ、「医者になりたかった(中略)実際には、勉学や研究を行う勇気はなかったでしょうし、書く以外に何もない(後略)」と述べている[9]。 大学在学中、処女作の原稿を書きつつ、グランゼコール準備級試験を受けるが不合格に終わった[10]。 1953年の夏以降、サガンの親友フロランス・マルロー (fr[注釈 2]) は母クララ・マルロー (fr) にサガンの原稿を見せたが、作家だった母はろくに読まないままドゥノエル出版社 (fr) 総務部長職にあったフランソワ・ヌリスィエ (fr) に原稿を渡したものの、同社は目もくれなかったという[11]。作家で映画脚本家のコレット・オドリー (fr) には結末の書き直しを提案された上で出版社3社を紹介してもらい、1954年1月17日、最終的にジュリアール社 (fr) での出版が決定した[12]。 1954年5月、選考委員にジャン・ポーラン、ジョルジュ・バタイユ、ロジェ・カイヨワ、マルセル・アルランらお歴々が揃った批評家賞「プリ・デ・クリティック (Prix des Critiques)」を受賞し、これがキッカケでデビュー作『悲しみよこんにちは』は書店店頭で売り上げを大きく伸ばす[14]。 家族との昼食の席で出版社との契約と『悲しみよこんにちは』を出版する運びになったと報告した当初、父親から実名の姓「コワレ (Quoirez)」は表紙に使わせないと反対された。そのためペンネームが必要になり、サガン女公爵ドロテア・フォン・ビロンのひ孫サガン公エリ・ド・タレイラン=ペリゴール (fr) からとって「サガン」と付けたのは、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』第3編「ゲルマントのほう (Côté de Guermantes) 」作中の一節に当時のサガン公を連想させる人物が登場し、その名前の響きに魅了されたためであった[4][16]。 サガンは「文学界のマドモワゼル・シャネル」とベルナール・フランク(fr ジャーナリスト)に呼ばれ、そのフランクや上述の親友フロランス・マルロー(映画助監督)ら同世代や、ソーシャライトでダンサーのジャック・シャゾット (fr 1928年-1993年)、歌手ジュリエット・グレコ (1927年-2020年) とその妹のシャルロット・エイヨー(Charlotte Aillaud[注釈 3])、あるいはイタリア人の興行師マッシモ・ガルジア(fr 1940年生まれ)らと親密につきあい、取り巻きに囲まれて過ごした。莫大な収入は服や宝石、原稿など周囲の者にとても寛大に買い与えては浪費し、息子ドニにろくに残さなかった。 アメリカで旅行を楽しみ、しばしばトルーマン・カポーティとエヴァ・ガードナーと同道しており、1957年には自動車事故で重傷を負った。結婚は2度、相手はガイ・シェーラーおよびボブ・ウェストホフである(それぞれ1958-60年、1962-63年)。そして、どちらとも離婚した。パリ16区フォッシュ大通り(fr)界隈に居住し、一人息子は写真家のドニ・ウェストホフ(Denis Westhof、1963年 - )である。 若年期に成功しサン=ジェルマン=デ=プレ界隈で文学者ら名士と交遊した。人々はサガンを小説のキャラクターと混同し重ね合わせ、彼女はすぐに、裕福でのんき、カジュアルで性的に解放された世代の「女性版ジェームズ・ディーン」のような象徴になった。 しかし、莫大な金銭を得た人物にありがちなことであるが、たちの悪い取り巻きに囲まれて生活し、薬物(鎮痛剤・コカイン・モルヒネ・覚せい剤の一種アンフェタミンなど)やアルコールに溺れただけでなく、ドーヴィルに繰り出すなど生涯を通じ過度の浪費癖やギャンブル癖も直らず、数百億円も稼いだのに晩年には生活に困窮した。このような破天荒な生活を続けてコカイン所持で逮捕されたり、脱税で起訴をされたり前科もあった。バイセクシャルでもあり、夫以外にも男女両方の愛人がいた。故に、国内外のゴシップ誌にスキャンダルを書き立てられることも多く、芸能人顔負けのゴシップクイーンでもあった。[要出典] 後半生のおよそ12年間は、上述のように預金などを差し押さえられて生活に困り、また心身ともに薬物中毒の後遺症に苦しんでいた。 2002年2月の脱税事件「エルフ事件」の影響もあって、多額の罰金や追徴課税を支払う羽目になり、パリ市内のユニヴェルシテ通りの家からオルセー河岸通りの小さめの部屋へ、さらにリール通り73番地へとパリ7区内を転々とした。また晩年は、ノルマンディ地方のカルヴァドス県リジュー郡エクモヴィルの別荘「ル・マノワール・デュ・ブルイユ」(Le Manoir du Breuil ヴィラないしパヴィヨン、広壮な別宅)にこもりきりで、オンフルールの病院で心臓疾患のため69歳で死去した。 2008年には、伝記映画『サガン -悲しみよ こんにちは-』がシルヴィー・テスチュー主演、ディアーヌ・キュリス監督で作られ、サガンになりきったテスチューはセザール賞主演女優賞候補となった。 作風中流の人々のやや平穏無事な生活の描写で有名。デビュー作の小説『悲しみよこんにちは』は1954年、18歳の頃に出版された。父親の情事に出会った少女を描いた同作は、出版と同時に世界的なベストセラーとなった。またサイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』に影響を及ぼした。サガンは1996年まで多数の作品を発表し、その多くが映画化された(下記参照)。 ジャン=ポール・サルトルと交流が深く、作品には実存主義の影響が見られる。後半期、サルトルの死後に発表された『水彩画のような血』、『夏に抱かれて』では第二次世界大戦下のナチス政権、レジスタンス運動を題材とした。 2001年の映画『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』の登場人物マーゴ・テネンバウム(演:グウィネス・パルトロー)は、サガンをモデルにしている。 人生観若き日の対談集『愛と同じくらい孤独』(新潮文庫版、朝吹由紀子訳)では以下のような人生観を披露している。
主な著書小説
短編集
戯曲
自伝随筆
インタビュー
映画脚本
主な映画化作品
脚注注釈
出典
参考文献主な執筆者の姓のABC順。
評伝
関連項目
外部リンク |