ハーメルンの笛吹き男(ハーメルンのふえふきおとこ、独: Rattenfänger von Hameln、英語: Pied Piper of Hamelin)は、現在のドイツの街ハーメルンにおいて1284年6月26日に起きたとされる出来事についての伝承である。グリム兄弟を含む複数の者の手で記録に残され、現代まで伝わった。
Anno 1284 am dage Johannis et Pauli war der 26. junii Dorch einen piper mit allerlei farve bekledet gewesen CXXX kinder verledet binnen Hamelen gebo[re]n to calvarie bi den koppen verloren
— http://www.triune.de/legend
様々な解釈の中で、低地ドイツ地方から出発した東ヨーロッパへの移民説がもっとも説得力のある解釈である。「ハーメルンの子供たち」とは、モラヴィア、東プロイセン、ポメルン、チュートン地方への移住を募集する地主達により、移民の意思を抱いていた当時のハーメルン市民の事だったのであろう。過去の時代には、現代でもしばしば行われているように、町の住民全てが「○○の子供達」あるいは「○○っ子」と呼ばれていたのだと推測される。やがて「子供達の集団失踪の伝説」は「ネズミ駆除の伝説」に統合された。この伝説はまず例外なく、中世の製粉所のある町の最大の脅威であったネズミの集団発生と、時には成功を収め時には失敗する職業的ネズミ駆除人について述べている — The Legend of the Pied Piper Rattenfängerstadt Hameln September 3. 2008 参照
「1227年にボルンホーフェトの戦いにおいてデンマーク軍を撃ち破った後」とウドルフは説明する。「スラブ民族が住んでいた南バルト海沿岸がドイツの植民地として利用可能になった」。ポメルン、ブランデンブルク、ウッカーマルク、プリクニッツの司教や公爵達は、口先の巧みな「ロカトール」、すなわち中世期における植民請負人を送り出し、新天地への移住を望んでいた人々に高収入を約束した。数千人に及ぶ若者が低地ザクセンとヴェストファーレンを後にして東に向かった。その証拠となるのは、東方植民地に見られる1ダースものヴェストファーレン由来の地名である。事実、ヴェストファーレンからポメルンに至る街道にはヒンデンブルクと呼ばれる村が5ヵ村、同じく東シュピーゲルベルクと呼ばれる村が3ヵ村あり、ハーメルン南のベフェルンゲンに由来するベルリン北西のベフェリンゲン、現代のポーランドにあるベヴェリンゲン等の地名が存在する — Ursula Sautter, "Fairy Tale Ending." Time International, April 27, 1998, p. 58.
言語学教授のユルゲン・ウドルフの述べるところでは、1284年の6月にドイツの村ハーメルンから130人の子供達が消失した。ウドルフ教授は当時のハーメルンの村で知られていた全ての姓を記録し、それと一致する外部の姓を探し始めた。どちらもベルリン北部途上にあるプリクニッツとウッカーマルクに驚くほど頻繁にハーメルンと同じ姓が現れるのを教授は見出した。彼はまた現代のポーランドの一部であるかつてのポメルン地方にも同じ姓があるのを発見した。ハーメルンから消えた子供達とは、実際のところは東ヨーロッパへの移民を募集するドイツ植民運動に利用された職の無い若者達であったのだと、ウドルフは推測する。伝説の笛吹き男などは実在しなかったのかもしれないが、教授はこうも述べる。「東方への植民者を募るためにドイツ北部を歩き回っていたロカトール(Lokator、植民請負人)なる者達がいた」。ロカトールはいずれも弁舌巧みであり、ある者は鮮やかな衣装で着飾っていた。ハーメルンからの脱出は、デンマークが東ヨーロッパの支配権を失った1227年のボルンホーフェトの戦いに関連しているのかもしれないと、ウドルフ教授は示唆している。これによりドイツ植民への道が開かれ、13世紀後半には身体壮健な若者らをブランデンブルクやポメルンに連れてこようとする組織的な試みが行われた。教授の姓名や町名の調査に従えば、この移民運動は現代のポーランド北西部にあるスタロガルト近辺まで到達した。一例を挙げれば、ハーメルン付近の村ベフェルンゲンには、ベルリン北部やプリツヴァルク付近のベフェリンゲンや、スタロガルト付近のベヴェリンゲン等の対応する地名が存在する。ポーランドの電話帳には当地で予想されるような典型的なスラヴ名ではなく、13世紀のハーメルンの村で一般的であったようなドイツ由来らしき姓が多数列記されている。事実、今日のポーランドの電話帳には、Hamel、Hamler、Hamelnikow と言った、ハーメルンに由来を持つと思われる姓が掲載されているのである — Eastman's Online Genealogy Newsletter: A Weekly Summary of Events and Topics of Interest to Online Genealogists Vol. 3 No. 6 – February 7, 1998 Ancestry Publishing — Pied Piper of Hamelin. September 5, 2008 参照
別の説として、子供達は何らかの巡礼行為か軍事行動、あるいは新規の少年十字軍運動(少年十字軍運動は1212年というこの事件のやや過去に起こっている)の一環として町から去り、二度と両親の元へ戻らなかったとする説がある。18世紀後半から20世紀前半まで広く信じられていたのは、1734年にヨーハン・クリストフ・ハーレンベルクが唱えた、1260年のゼデミューンデの戦いで壊滅したハーメルン市民軍の記憶が変形し、笛吹き男に引き連れられた130人の子供達となったとの説である。1940年にハインリッヒ・シュパヌートが執筆した『ハーメルン市史』Geschichte der Stadt Hameln では、ハーレンベルクや1741年のレーガーの解釈に基づき、この説が採用されている[12]。これらの説では、名前のない笛吹き男は運動のリーダーか新兵徴募官であったと見なされている。
ウィリアム・マンチェスターの『炎のみに照らされた世界』(A World Lit Only by Fire, 1992) は、笛吹き男は精神異常の小児性愛者だったと述べている。マンチェスターはこの事件が起こったのは1484年の6月20日であり、この犯罪者はハーメルンのザクセン人の村から130人の児童を誘拐し、「口に出して言うのも憚られる目的」に用いたのだと断言している。更にマンチェスターは「ある子供達は二度と姿を見せず、ある子供たちは五体バラバラにされて、森の繁みの中や木の枝から吊り下がっている所を発見された」と付け加える。しかし、マンチェスターがまことしやかに述べ立てる事件を裏付けるような資料は一切発見されておらず、彼は事実と断言するこの説に対して出典を提示していない。マンチェスターの説は、少なくともその120年以前から現れている物語のバージョンを無視している[13]。
最初の英語による記述は、オランダ系の古物収集家にして宗教論争家であったリチャード・ローランド・ヴェルステガン(1548年頃-1636年)による、 『腐朽した知識の復権』 Restitution of Decayed Intelligence (アントウェルペン、1605年)の中に見られる。しかしヴェルステガンは物語の出典を示していない(ツィンメルンの手稿は1776年になってから再発見されており、ヴェルステガンの出典とはなりえない)。ヴェルステガンの記述はネズミの群れについての言及と、行方不明になった子供達がトランシルヴァニアに現れたという考察を含めている。英語の成句 Pied Piper (まだら服の笛吹き男)は、ヴェルステガンによる造語であると考えられる。より興味深いことに、ヴェルステガンによる事件の日付は、上の記述とは全く異なる1376年の7月22日となっている。これは1284年に行われた移民という事件と、1376年のネズミの集団発生という事件の二つの出来事が統合された事を示唆するのかもしれない。
笛吹き男の物語は日付を違えた形で、ロバート・バートンの1621年の著作『憂鬱の解剖』The Anatomy of Melancholy でも超自然現象の一例として紹介された。「1484年6月20日に、ザクセンのハーメルンで、まだら服の笛吹き男の姿をした悪魔が130人の子供たちを連れ去り、子供達は二度と見つからなかった」。バートンはこの話の直接の出典は提示していない。
ヴェルステガンの文章はナサニエル・ウォンリーの『小世界の驚異』Wonders of the Little World(1687年)に転載され、ウォンリーの著書を直接の出典として19世紀のブラウニングの詩が書かれた。ヴェルステガンの記述はウィリアム・ラメゼイの『虫食いの話』Wormesにも転載された。「(前略)ヴェルステガンの物語で最も注目に値するのはまだら服の笛吹き男の話であり、この男は1376年7月22日にザクセンのハーメルンの町から160人の子供を連れ去った。悪魔の怒りに対して、神が不思議にも許可を与えたのだ」。
Ich bin der wohlbekannte Sänger,
der vielgereiste Rattenfänger,
den diese altberümte Stadt
Gewiß besonders nötig hat.
Und wären' s Ratten noch so viel,
und wären Wiesel mit im Spiele:
von allen säub'r ich diesen Ort,
sie müssen miteinander fort.
Dann ist der gutgelaunte Sänger
mitunter auch ein Kinderfänger,
der selbst die wildesten bezwingt,
wenn er die goldnen Märchen singt.
Und wären Knaben noch so truzig,
und wären Mädchen noch so stuzig:
in meine Saiten greif ich ein,
sie müssen alle hinterdrein.
Dann ist der vielgewandte Sänger
gelegentlich ein Mädchenfänger;
in keinem Städtchen langt er an,
wo er's nicht mancher angetan.
Und wären Mädchen noch so blöde,
und wären Weiber noch so spröde,
doch allen wird so liebebang
bei Zaubersaiten und Gesang.
^ abShiela Harty Pied Piper Revisited, Essay published in: David Bridges, Terence H. McLaughlin, editors Education And The Market Place Page 89, Routledge, 1994 ISBN 0750703482
^Nobert Humburg, Der Rattenfänger von Hameln. Die berühmte Sagengestalt in Geschichte und Literatur, Malerei und Musik, auf der Bühne und im Film. Niemeyer, Hameln 2. ed. 1990, p44. ISBN 3-87585-122-6
^Jürgen Udolph, Zogen die Hamelner Aussiedler nach Mähren? Die Rattenfängersage aus namenkundlicher Sicht, in: Niedersächsisches Jahrbuch für Landesgeschichte 69 (1997), pp125–183, here p126. ISSN 0078-0561
^"What happened to these children?", Saturday Evening Post, December 24, 1955
^[1] Poag, James F. "Pied Piper of Hamelin." World Book Online Reference Center. 2008. 4 September 2008 参照
^German Traditions The Pied Piper of Hamelin — Goethe-Institut Dublin. Accessed September 5, 2008 参照
^GERMAN-BOHEMIAN Mailing List Laurences question: RootsWeb Mon, 13 March 2006 10:12:12 -0800 "Furthermore, The German areas had been colonized in a big way since 1254 AD on behest of the Bohemian King Ottokar II and his faithful servant the good Bishop of Olmuetz (Olomouc)Bruno von Schaumburg who helped him settle the North Eastern part of Bohemia and Moravia." September 5, 2008 参照
^Wolfgang Mieder, The Pied Piper: A Handbook Page 67, Greenwood Press, 2007 ISBN 0313334641 - Google books により September 3, 2008 参照
^Twist in the tale of Pied Piper's kidnapping by Imre Karacs, Independent, The (London), January 27, 1998. Online version Provided by ProQuest Information and Learning Company — September 5, 2008 参照
^Willy Krogmann Der Rattenfänger von Hameln: Eine Untersuchung über das werden der sage Page 67 Published by E. Ebering, 1934. Original from the University of Michigan — Digitized June 12, 2007 Google Books により September 3, 2008 参照