ハンス=イェスタ・ペーアソン (Hans-Gösta Pehrsson , 1910年 10月10日 - 1974年 3月16日 )は、第二次世界大戦 期のナチス・ドイツ 武装親衛隊 スウェーデン人 義勇兵 。第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」 に所属し、第11SS装甲偵察大隊 (SS-Panzer-Aufklärungs Abteilung 11 )第3中隊長 を務めた。
独ソ戦 後期の1944年から1945年の間、バルト三国 、ポメラニア 、ベルリン の戦いで武装親衛隊の装甲車 中隊指揮官として活躍。武装親衛隊に所属したスウェーデン人義勇兵の中で最も多くの勲章 を獲得し、最も高い階級 に昇進し、そしてベルリン市街戦 で最後まで生き残ったスウェーデン人義勇兵となった[ 2] 。最終階級はSS大尉 (SS-Hauptsturmführer)。
他の日本語表記として、ハンス・ゲシューター・フェハーソン[ 3] 、ハンス・ゲースタ・ペーアソン[ 4] がある。
武装親衛隊入隊までの経歴
スウェーデン王国 ブレーキンゲ県 カールスクローナ (南端の赤印の箇所)
スウェーデン時代
1910年 10月10日 [ 注 1] 、ハンス=イェスタ・ペーアソンはスウェーデン王国 ブレーキンゲ県 カールスクローナ (Karlskrona )に生まれた。父親はスウェーデン軍 の下士官 であった[ 2] 。
実務教育およびヨンショーピング県 エークシェー (Eksjö )のスモーランズ連隊 (I 12 )での勤務を経た後、ペーアソンは就職に関する事情で隣国デンマーク の首都コペンハーゲン へ移住した[ 2] 。
デンマーク時代
1936年5月8日、ペーアソンは第一次世界大戦 の際に戦災孤児 となったオーストリア人 女性と結婚した(同年9月に長女が誕生[ 5] )。ペーアソンの妻の養父は工場 を経営する裕福なデンマーク人 であり、ペーアソンは義父の工場に化学者 として就職した[ 2] 。
ちなみに、スウェーデン 国内においてペーアソンは1933年 に発足したファシズム 政党「国家社会主義労働者党 」(NSAP、1938年末にSSS と改称)の支持者であったが、デンマーク に移住してからはデンマークのナチ 政党「国家社会主義デンマーク労働者党 」(DNSAP )の支持者となった。ペーアソンは第二次世界大戦 が勃発する前も、1940年4月9日のナチス・ドイツ によるデンマーク占領 後も、他のデンマーク・ナチ党員と共に熱心に活動していた[ 2] 。
1941年 - 1943年 デンマーク義勇軍時代
1941年6月22日、ナチス・ドイツ はソビエト侵攻作戦「バルバロッサ」 を開始した。その約1ヶ月後の7月21日[ 2] (もしくは7月25日[ 5] )、ペーアソンは武装親衛隊 の指揮下でソビエト連邦 と戦うデンマーク人 義勇兵 部隊「デンマーク義勇軍 」(独 :Freikorps Danmark 、丁 :Frikorps Danmark )に志願入隊した[ 2] 。
1942年5月以来、クリスティアン・フレデリク・フォン・シャルブルク SS少佐 (SS-Stubaf. Christian Frederik von Schalburg )率いるデンマーク義勇軍 は東部戦線 のデミャンスク (デミャンスク包囲戦 終了後の同地域)やイリメニ湖 周辺で戦った。デンマーク義勇軍第2中隊のSS伍長 として参戦したペーアソンは6月1日にSS曹長 へ昇進し[ 5] 、8月2日には二級鉄十字章 を授与され[ 5] 、第4中隊の機関銃 小隊長に就任した[ 6] 。
そして、その軍事的才能を認められたペーアソンは1943年2月1日にバート・テルツSS士官学校 (SS-Junkerschule Bad Tölz )に入学、第9期戦時将校用課程(9. Kriegs-Junkerlehrgang)[ 注 2] を履修し、同年7月31日に卒業した[ 7] 。
1943年夏 「ノルトラント」師団への配属
第11SS装甲偵察大隊第3中隊
バート・テルツSS士官学校卒業後の1943年8月20日、SS連隊付上級士官候補生(SS-Standarten-Oberjunker)としてペーアソンはその頃に創設された「ノルトラント」師団 の装甲偵察大隊に配属された。
ルドルフ・ザールバッハ SS大尉 (SS-Hstuf. Rudolf Saalbach )が指揮を執る第11SS装甲偵察大隊 (SS-Panzer-Aufklärungs Abteilung 11 )は、2個偵察中隊、2個装甲擲弾兵中隊、1個重兵器中隊から成る総員約800名の偵察大隊であった。その第3中隊はヴァルター・カイザーSS中尉 (SS-Ostuf. Walter Kaiser)が指揮を執り、4個小隊(第1 - 第3装甲擲弾兵小隊、第4重兵器小隊)で構成されていた[ 8] が、ペーアソンが小隊長を務める第4小隊には約40名のスウェーデン人 義勇兵 が所属していたことから、非公式ながら第4小隊は「スウェーデン小隊」(Schwedenzug)と呼ばれた。
1943年9月1日にSS少尉 (SS-Untersturmführer)に昇進したペーアソンは、その後、クロアチア からレニングラード 戦線への移動を命じられた「ノルトラント」師団とともにレニングラード戦線へ向かった。
1944年 レニングラード戦線 - ナルヴァの戦い
1944年1月14日、ソビエト赤軍 がレニングラード を包囲しているドイツ軍の戦線を突破すると、現地のドイツ軍諸部隊はエストニア のナルヴァ への退却を開始した。この時、ペーアソンは1月16日の戦闘で負傷して後送され、2月12日に野戦病院 で一級鉄十字章 を授与された[ 6] 。
負傷から回復したペーアソンは1944年3月3日に中隊に復帰し、ナルヴァの戦い におけるナルヴァ橋頭堡 を巡る攻防戦に参加した。その最中の1944年4月19日、第11SS装甲偵察大隊 第3中隊長ヴァルター・カイザーSS中尉が戦死 し[ 人物 1] 、ペーアソンが代行の中隊長となった。その後は別のドイツ人SS中尉が中隊指揮を引き継いだが彼もまた戦死したため、1944年6月21日にSS中尉に昇進していたペーアソンが7月11日付で第11SS装甲偵察大隊第3中隊長に就任した[ 10] 。
ちなみにペーアソンは、1944年5月から6月にかけて第11SS装甲偵察大隊 がエストニア 北部のシッラマエ において休養している時に、独断で中隊内のスウェーデン系エストニア人 および非常に若い兵士の何名かが中立国 スウェーデン へ脱出するのを手助けした。これは今次大戦におけるドイツの敗北を悟ったペーアソンが、疲れ切り、幻滅した若者たちを絶望的な戦闘に強制投入する代わりにとった措置であった[ 11] 。
1944年8月、ソビエト赤軍 がエストニア のペイプス湖 で攻勢を開始すると、13日にペーアソンの第11SS装甲偵察大隊 第3中隊はエストニアのタルトゥ 市における戦闘に投入された。この時ペーアソンはシュビムワーゲン に乗って偵察に向かったが、ある街の近くで二方面から機銃掃射 を受けた。これ以上の進出は効果無しと判断したペーアソンは偵察を中止し、無傷で帰還した[ 12] 。
1944年10月 クールラントでの奮戦
1944年9月、「ノルトラント」師団 が所属するドイツ北方軍集団 はエストニア からラトビア 半島北部のクールラント へ撤退したが、10月には北方軍集団全体がクールラント半島においてソビエト赤軍に包囲された(クールラント・ポケット )。リーバウ の港は包囲されたドイツ軍部隊にとって非常に重要な拠点であり、フェリックス・シュタイナー SS大将 (SS-Ogruf. Felix Steiner )の第ⅢSS装甲軍団はプレークルン(Preekuln、ラトビア語 表記Priekule )周辺の前線を維持していた。
第二次クールラント会戦の最中である1944年10月中旬、プレークルンでペーアソンは「ノルトラント」師団 長ヨアヒム・ツィーグラー SS少将 (SS-Brigf. Joachim Ziegler )から直々に命令を受けた。当時のペーアソンの伝令を務めていた民族ドイツ人 (ルーマニア 出身のドイツ系ルーマニア人 )フランツ・ベレズニャークSS伍長 (SS-Uscha. Franz Bereznyak)は、1978年に記した手紙[ 13] で次のように述べている[ 14] 。
「
プレークルン地区で過ごした日々は第11SS装甲偵察大隊 第3中隊にとって暗黒の日々であった。この場所はトレクニ(Trekni)と呼ばれていた。ペーアソンSS中尉は師団長ツィーグラー SS少将から直々に命令を受けた。
「ここはミタウ およびリーバウ 防衛の重要拠点である。攻撃・確保し、そして最後の一兵に至ろうとも必ず死守せよ」
攻撃後、我々がロシア軍の丘と掩蔽壕を制圧した時、ペーアソン中隊にはわずかの兵しか残っていなかった。恐ろしい殺し合いが繰り広げられていた。ロシア軍はこの地の重要性を承知しており、丘を奪回するために持てる力を全て投入した。我々は4日間に渡って敵の攻撃を全て撃退したが、5日目には後退を余儀なくされた。ペーアソンの指揮所は掩蔽壕線から100メートル後方にあった。私は我々が逃げ帰る姿をペーアソンが目撃した瞬間のことを決して忘れない。
「腰抜けども、配置に戻れ!」
そう叫んだ彼は我々12名を率いて反撃を開始した。ロシア兵は勝利を確信していたため、攻撃を予期していなかった。我々は100名以上を捕虜 にした。戦闘後、我々は酒 でいっぱいのペーアソンの水筒を飲み干した。その後すぐペーアソンはザールバッハ SS少佐に無線 で報告した。
「陣地を奪回。もしシュナップス のケースが直ちにここに運ばれないのであれば、我々は陣地を放棄します」
ザールバッハはシュナップスのケースと共に現れた。彼はペーアソンの言葉を覚えていたのであった。
」
1944年10月中旬、第11SS装甲偵察大隊第3中隊の将兵はラトビア・クールラントのトレクニ近辺で繰り広げられた戦闘で全滅に近い損害を被りつつも、戦区内で7輌のT-34 戦車をパンツァーファウスト で撃破し[ 15] 、中隊長のペーアソンはわずか12名の兵を率いた反撃で赤軍兵100名以上を捕虜にするという戦果を挙げた。この功績を讃えられ、ペーアソンは1944年12月25日付でドイツ陸軍名鑑章 (Ehrenblattspange des deutschen Heeres )を受章した[ 16] 。
EHRENBLATT
DES DEUTSCHEN HEERES
Auf dem Schlachtfeld haben sich durch besondere Tapferkeit hervorgetan
...(受章者21名の官姓名)
SS-Obersturmführer Hans-Gösta Pehrsson.
Chef der 3. Kompanie SS-Panzer-Aufklärungs-
Abteilung 11
...(受章者28名の官姓名)
25. Dezember 1944
Der Führer
(サイン)
1944年12月31日夜、マイナス30度の凍てつく気温の中、ラトビア ・クールラント のリーバウ 近郊のBunkasという村でペーアソンは1945年を迎えた[ 17] 。
1945年2月 - 3月 ポメラニア戦線
ポメラニア戦線
1945年1月、第ⅢゲルマンSS装甲軍団に所属する第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」 は、休養・補充・再編制のためにクールラントからポメラニア のシュテッティン まで海路後退し、2月に前線に復帰した。この時期のポメラニア戦線ではヨーロッパ 各地から集まった多数の武装親衛隊外国人義勇兵、すなわちデンマーク人 、スウェーデン人 、ノルウェー人 、オランダ人 、フラマン人 、ワロン人 、フランス人 、ラトビア人 、スイス人 がソビエト赤軍 と死闘を繰り広げており、ペーアソンは2月に白兵戦章銀章 (Nahkampfspange in Silber)を受章した[ 15] 。
3月8日、シュテッティン ・アルトダム(Altdamm, 現ドンビエ Dąbie )での戦闘の際、ペーアソンは指揮壕に命中した敵の砲弾 によって負傷した。ペーアソンはフランツ・ベレズニャークSS伍長の装甲車によって一時後送され、後に戦傷章銀章 (Verwundetenabzeichen in Silber)を受章した[ 18] 。
イギリス自由軍団
1945年3月22日、ペーアソンの第11SS装甲偵察大隊 第3中隊に武装親衛隊 イギリス人 部隊「イギリス自由軍団 」(British Free Corps )(小隊 規模)の隊員が配属された。ペーアソンは彼らに装甲兵員輸送車 1輌とシュビムワーゲン 1輌を与え、また、中隊の担当区域内に待避壕を構築するよう任じた[ 19] 。
しかし間もなく、イギリス自由軍団 の隊員の1人トーマス・ハラー・クーパー SS曹長 (SS-Oscha. Thomas Haller Cooper )から、イギリス自由軍団が戦闘で役に立つとは思えない部隊であることを詳しく説明された第11SS装甲軍司令官フェリックス・シュタイナー SS大将と「ノルトラント」師団 長ヨアヒム・ツィーグラー SS少将の命令により、イギリス自由軍団は前線から引き抜かれた[ 20] 。その後、イギリス自由軍団の隊員の多くはシュレースヴィヒ=ホルシュタイン に向かい、そこで彼らの同胞であるイギリス軍 に投降した(戦後、イギリス自由軍団の隊員はイギリスで裁判にかけられ、大戦中にドイツ軍に所属したとして有罪判決を受けた)[ 21] 。
1945年4月 ベルリンの戦い
ベルリン市街戦
1945年4月、第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」 はベルリンの戦い に参加し、廃墟と化したベルリン 市内でソビエト赤軍 と市街戦 を繰り広げた。この時、ペーアソンは4月15日付でSS大尉 (SS-Hauptsturmführer)に昇進しており、また、4月17日からは「ノルトラント」師団司令部付の情報将校(Ic)を務めていた。
その期間中、ペーアソンは師団長のヨアヒム・ツィーグラー SS少将から休暇を与えられ、残留スウェーデン人 の送還への援助を拒否するかどうか、スウェーデン 大使館 に様子を探りに行くよう指示された[ 22] 。
1943年に武装親衛隊 に移籍するまでは国防軍 の参謀 将校であったツィーグラーSS少将は、狂信とは無縁のリアリストであり、これ以上の戦闘が無意味であることを理解していた。既に4月中旬にフェリックス・シュタイナー SS大将と秘密裏に連絡を取っていたツィーグラーは、「ノルトラント」師団の将兵や外国人義勇兵をベルリンから脱出させてシュレースヴィヒ=ホルシュタイン へ向かわせようと画策した[ 23] 。しかし間もなく、ツィーグラーは総統 アドルフ・ヒトラー の命令によって「ノルトラント」師団長の職を解任された上で総統官邸 に軟禁された。ツィーグラーの計画に協力したペーアソンも身柄を拘束された[ 24] ものの、(詳細は不明であるが)ペーアソンは釈放された。
1945年4月25日、再び中隊長として古巣の第11SS装甲偵察大隊 第3中隊に戻ったペーアソンは、ヴィルヘルム・モーンケ SS少将(SS-Brigf. Wilhelm Mohnke )が指揮を執る総統官邸 守備隊に4月27日付で編入された。ペーアソンはフランツ・ベレズニャークSS伍長とともに、3輌のSd Kfz 250 をもって各部隊の連絡役を務めた。
5月1日、ペーアソンは民間人の服を着てティーアガルテン にあるスウェーデン大使館 地下壕に赴き、自分も含めた武装親衛隊スウェーデン人義勇兵の生存者の保護を求めた。当時、スウェーデン大使館で牧師 を務めていたエリク・ミルグレン(Erik Myrgren)は、戦後の1993年のインタビューでこの時のことを次のように述べている[ 25] 。
「
スウェーデン人SS兵士たちの保護を求めて大使館の地下壕に現れた1人のスウェーデン人SS将校の話により、ヒトラーが自殺したという知らせがもたらされました。この将校(民間人の服を着た、痩せ型で黒髪の将校)の名はペーアソンといいました。彼と彼の中隊は(市街戦の)最後の局面で総統官邸の援護を担当しており、また、彼は作戦会議で総統官邸に赴いた際に総統の死を知らされたそうです。こうして、我々のグループ(スウェーデン大使館)はこの知らせ(アドルフ・ヒトラーの死 )を、それが公式に発表されるよりも早く入手しました。
」
しかし、ペーアソンの期待もむなしく、スウェーデン大使館の外交官 はペーアソンの要求を拒否した。やむをえずペーアソンは再び軍服に着替え、戦闘に戻った。ペーアソンは戦後(1945年10月)の供述の中で、ベルリン市街戦で兵士たちが最後まで戦い続けた理由の1つを次のように説明している[ 25] 。
「
これらの日々の中で、ゲシュタポ は兵士たちに耐え難い重圧を絶え間無くかけ続けていた。信頼できない(戦おうとしない)と判断された将兵がいきなり警察部隊によって拘束・連行され、審理を経ずに射殺されることも頻繁にあった。
」
最後の戦い
1945年5月1日夜、ペーアソンが所属する第11SS装甲偵察大隊 はヴァイデンダマー橋 (Weidendammer Brücke )における包囲突破計画を知らされた。ペーアソンはこれまで生き残ってきた部下たちと握手し、別れの言葉を告げた。「皆、戦争は終わった。お前たち自身を救う時だ」[ 26]
そして5月1日から2日にかけての深夜、ペーアソンは「ノルトラント」師団最後の装甲車両であるSd Kfz 250/1 の1輌を指揮してベルリン脱出を図った。他の1輌はフランツ・ベレズニャークSS伍長が指揮を執っていた[ 人物 2] 。
ペーアソンの装甲車(推定車輌番号339[ 27] )には兵士の他に婦人補助兵(一説にはノルウェー人 看護婦 [ 28] )も搭乗しており、彼らはベルリン市街の道路を進んだ。
しかし、ペーアソンの装甲車はフリードリヒ通り(Friedrichstraße )でソビエト赤軍 の砲弾 が直撃した。これによって乗員のほとんどが車内で死に、わずかに生き残った何名かの乗員は炎上する装甲車から脱出したが、運転手のスウェーデン人 SS伍長ラグナル・ヨハンソン (SS-Uscha. Ragnar Johansson)をはじめ、彼らは降車後の戦闘で次々と戦死した。この時のペーアソンは負傷したものの、その場を生き延びることができた。
その後、ペーアソンはベルリン地下鉄 の高架下に走り込んだが、そこで遭遇した赤軍兵に手榴弾 を投げつけられたため、コンクリートの壁の背後に隠れて爆発から身を守った。地下鉄の構内から地上に出た後、ペーアソンは近隣の建物に逃げ込んだ。ペーアソンが建物の一室に身を潜める間、彼を追ってきた赤軍兵たちは家具を叩き壊しながら建物中を捜索し、ペーアソンと同じ建物に隠れていた2名のSS兵士を発見した。その直後、ペーアソンはその2名のSS兵士が射殺される音を耳にした。幸いにもそれから2日2晩、ペーアソンは赤軍兵に発見されることなく建物内に潜伏し続けることができた[ 29] 。
しかし、潜伏から3日目、隠れ場所から階下に移動したペーアソンはそこで住民の老女と出くわした。彼女はペーアソンに対し、初日の捜索以来赤軍兵は見ていないと言った。ペーアソンは安堵の息をつき、建物から外に出て一軒の店に入った。店の主人はペーアソン用の民間人の服を持ってくると約束したが、その間にペーアソンが窓から外の様子を見ると、1人の老女が3人の赤軍兵と共にいた。
ペーアソンが大急ぎで元の隠れ場所へ戻る間、階下から赤軍兵の声が近づいてきた。ペーアソンが逃げ込んだ隠れ場所のドア(壁紙で隠れていた)は無造作に開かれたままであり、赤軍兵たちは短機関銃 の銃口を隠れ場所の奥に向け、(ペーアソンに対して)出て来いと言った。
その時、ペーアソンは手で何か柔らかいものを掴んだが、それは国防軍 の下士官 の制服であった。親衛隊 の徽章が着いたままの自分の軍服を脱ぎ捨てたペーアソンはすぐさまその制服に着替え、国防軍の下士官として赤軍兵に捕らえられた。
その後、ペーアソンは捕虜収容所に送られたが、早い段階で脱走に成功し、民間人の服を手に入れて再びベルリン 市内に潜伏した[ 30] 。
戦後
スウェーデンへの帰国
1945年6月2日、ペーアソンは第11SS装甲偵察大隊 第3中隊時代の戦友であるスウェーデン人 SS伍長エリク・ヴァリン (SS-Uscha. Erik Wallin )[ 注 3] とともにベルリン 西部のナウエン (Nauen )へ向かう牛乳 配達車の荷台に乗り込み、ベルリンを出発した。ペーアソンたちは道中に様々な出来事を経験しつつ、ナウエン からハンブルク 、デンマーク を経て、最終的にスウェーデン に帰国することができた[ 31] 。ペーアソンはスモーランド地方 ベートランダ (Vetlanda )で妻子と再会した[ 32] 。
帰国後
ヨーロッパ における第二次世界大戦 が終結した後、ヨーロッパ諸国の多く(特にナチス・ドイツ による侵略を受けた国家)では自国民の中の対独協力者 に対する処刑・処罰が行われたが、スウェーデン 、フィンランド 、アイスランド 、リヒテンシュタイン 、ポルトガル 、スペイン においては対独協力者に対する処刑・処罰は行われなかった[ 33] [ 34] [ 注 4] 。
しかし、大戦 中にナチス・ドイツ 武装親衛隊 に所属したという事実はペーアソンの私生活に少なからぬ影響を及ぼした。ペーアソンの妻はデンマーク人の義父から養子縁組 を切られ、家を追い出されていた。さらに、ペーアソンは大戦の経験を克服することができなかった[ 32] 。妻の言によると、大戦から生きて帰ってきたペーアソンは「昔と同じようにはならなかった」という。そして1949年、ペーアソン夫妻は離婚 した[ 35] 。
その後、ペーアソンはストックホルム にある精密機器 製造販売会社の営業社員 として働き、新たな家庭を築いた。なお、1953年にスウェーデン陸軍 のある部隊が軍事訓練を行った際、ペーアソンは独ソ戦 での戦闘経験に基づき、彼らのためにソ連兵の特性・行動・兵器などに関する講義を行った[ 32] 。
ストックホルム 郊外の共同墓地 ・スコーグスシュルコゴーデン
1974年 3月16日 [ 5] [ 36] 、ハンス=イェスタ・ペーアソンは癌 が原因で亡くなった。満63歳没。ペーアソンの遺体はストックホルム 郊外のスコーグスシュルコゴーデン に埋葬された[ 35] 。
今日、ペーアソンの墓 から50メートルほど離れた位置にある教会堂 の敷地内には、第11SS装甲偵察大隊 第3中隊時代の戦友エリク・ヴァリン (1997年 9月24日 死去)の墓石が置かれている[ 37] 。
キャリア
党員・隊員番号
階級
武装親衛隊
SS伍長 (SS-Unterscharführer)
1942年6月1日 SS曹長 (SS-Oberscharführer)
1943年 SS連隊付上級士官候補生(SS-Standarten-Oberjunker)
1943年9月1日 SS少尉 (SS-Untersturmführer)
1944年6月21日 SS中尉 (SS-Obersturmführer)
1945年4月15日 SS大尉 (SS-Hauptsturmführer)
勲章
武装親衛隊
人物評
イェスタ・ペーアソンは素晴らしい戦友であった。誠実で、高貴で、勇敢な彼は軍事の知識と才能を豊富に持っていた。たとえ自らの命を危険にさらすことになっても、彼は助けを必要としている者を助けた。彼は自分の部下と中隊に対する責任を担っていたからこそ、自分自身よりも戦友の命の方を重要視していた。そして彼はその責任を心地よく感じていた。彼は好感が持てる親切な男であった。私がこの良き戦友(ペーアソン)と最後に出会ったのは1944年のプレークルンである。
ペーアソンSS中尉は鋼鉄の精神の持ち主でした。彼は(制服の)左肩に縫い付けた青地に金のスウェーデン十字 を誇りとしていました。指揮官としての彼は偉大な人物でした。しかし、サッカー 選手としては絶望的でした。Mummassare(フィンランド湾 に面したエストニア 北部の街)での休養中、私たちは毎日のようにサッカーをしていましたが、私はいつもドリブルで彼を包囲したものです。それはさておき彼の人生についてです! 彼は皆から篤く敬われ、信頼される人物でした。しかし、彼自身はどちらかというと他人との接触を少なくし、「一人」でいることの方を好んでいたようです。彼の明晰な思考は結果として常に前向きな決定を下し、若い兵士たちは彼のために地獄へ突き進むことを何も恐れていませんでした。
その他
脚注
注釈
人物
^ ヴァルター・カイザーSS中尉(SS-Ostuf. Walter Kaiser):第11SS装甲偵察大隊第3中隊の初代中隊長(ペーアソンの上官) 生年月日・生誕地不明のドイツ人 将校。1943年春、「ノルトラント」師団 の創設に伴って1個偵察大隊 (第11SS装甲偵察大隊 )が編制された際に第3中隊の初代指揮官に就任(それまでの経歴は不明であるが、SS兵長 (SS-Rottenführer)時代のポートレイト写真では二級鉄十字章 、戦傷章 、一般突撃章 、ドイツ帝国スポーツ勲章 (Deutsches Reichssportabzeichen )、右ポケットに詳細不明の勲章を着用している)。 1943年夏にペーアソンが第11SS装甲偵察大隊第3中隊に配属されて以来、彼の上官となった。カイザーSS中尉はその人柄をスウェーデン人義勇兵たちに敬愛されていたが、1944年4月19日、エストニア ・ナルヴァ 近郊のソークラ(Sooküla)で戦死 した。
«出典»
Helbert Poller, Martin Månsson, Lennert Westberg "SS-Panzer-Aufklärungs-Abteilung 11 “Nordland”"(Leandoer & Ekholm, 2010)p31
Wilhelm Tieke "Tragedy of the Faithful"(J.J. Fedorowicz Publishing, 2001)p419
^ フランツ・ベレズニャークSS伍長(SS-Uscha. Franz Bereznyak):第11SS装甲偵察大隊第3中隊の民族ドイツ人兵士(ペーアソンの部下) 1925年 、ルーマニア 生まれの民族ドイツ人 (ドイツ 系ルーマニア人 )。1943年、(ドイツとルーマニアの間で結ばれた協定によって)ルーマニアの民族ドイツ人を武装親衛隊に入隊させる運動が始まった時に入隊。グラーフェンヴェーア演習場での訓練を経た後、「ノルトラント」師団 第11SS装甲偵察大隊 に配属され、ペーアソンの部下の1人となった。 ベルリン市街戦 の最終局面である1945年5月1日から2日にかけての夜、ベルリン脱出戦では「ノルトラント」師団最後のSd Kfz 250 の1輌を指揮して脱出を開始。彼の装甲車はソビエト赤軍の猛攻をくぐりぬけてヴァイデンダマー橋 (Weidendammer Brücke )の突破に成功したが、シュテッティナー鉄道駅(Stettiner Bahnhof )近辺においてソビエト赤軍の砲火を浴び、撃破された。重傷を負ったベレズニャークSS伍長はソビエト赤軍の捕虜 となり、10年以上の捕虜収容所生活を経てようやく故郷ルーマニア のバナト へ生きて帰ることができた。 戦後は写真家 として1977年まで働き、後に(ルーマニア社会主義共和国 から)西ドイツ に亡命 した。1990年 にドイツ で死去。ベレズニャークは独ソ戦 で第11SS装甲偵察大隊 のペーアソン中隊が赴いたすべての戦闘に参加し、いずれの戦闘でも生き残った。
«出典»
Poller, Månsson, Westberg 前掲書 p318
Tieke 前掲書 pp.331-332.
その他
^ 文献によってペーアソンの生年月日は「1901年生まれ」や「1910年3月10日」とされているが、武装親衛隊時代のペーアソンの個人情報ファイルには「1910年10月10日生まれ」(10.10.10)と記されている。
«出典»
Helbert Poller, Martin Månsson, Lennert Westberg "SS-Panzer-Aufklärungs-Abteilung 11 "Nordland": and the Swedish SS Platoon in the Baltic states, Pomerania and Berlin, 1943-1945 (Armoured Reconnaissance With the Waffen-SS on the Eastern Front)"(Leandoer & Ekholm, 2010)p331(ペーアソンの個人情報ファイルの写し)
^ 同課程の最初の3ヶ月間は第1期ゲルマン人 将校 用課程(英 :The 1. Course for Germanic Officers)でもあったことから、ペーアソンの同期の士官候補生には外国人が多く、その中には後に騎士鉄十字章 受章者となるエストニア 人のパウル・マイトラ (Paul Maitla )、第4SS装甲擲弾兵旅団「ネーデルラント」 第48SS装甲擲弾兵連隊「ヘネラル・セイファルト」全滅時に将校として唯一生還するオランダ人 のコルネリウス・ニーウエンダイク=フーク(Cornelius Nieuwendijk-Hoek)、デンマーク人 初の騎士鉄十字章 受章者エゴン・クリストフェルセン SS伍長(SS-Uscha. Egon Christophersen )の中隊長となるレオ・マセン(Leo Madsen)などが含まれていた。
^ 第11SS装甲偵察大隊 第3中隊の迫撃砲 小隊長エリク・ヴァリン SS伍長はベルリン市街戦 中に負傷し、市内の野戦病院 へ収容されていた。 1945年4月30日朝、野戦病院に押し入った赤軍 兵からみぞおちに強く銃口を押しあてられて「おまえ、SS か?」(Du SS?)と質問されたが、自分はふつうの国防軍 兵士だとがんばった。「いや、おまえ、SSだ!」(Da, da, Du SS!)(Da, da du SS?)と赤軍兵もあとに引かない。ヴァリンはかつてフィンランド軍 スウェーデン人 義勇兵 として(冬戦争 の際に)赤軍と戦ったことがあり、そういう経歴を示す書類をパスポート とともに破棄していたのだが、そんなバカなことが、と言わんばかりに、けんめいに作り笑いを浮かべた。相手はヴァリンが冷や汗をかいているのに気づかず、その場を立ち去った。
ベルリン市街戦終結後、廃墟と化したベルリン市街を歩いていたヴァリンはシュトゥットガルトプラッツ (Stuttgarter Platz )近郊の道路の角に立っている人物を見て驚愕した。その人物はヴァリンと同じく武装親衛隊スウェーデン人義勇兵のエリク・グンナル・エクレフSS少尉(SS-Ustuf. Erik Gunnar Eklöf、元第11SS装甲偵察大隊 第3中隊小隊長で、1944年夏以降は親衛隊本部 職員)であった。そして、エクレフの話によってGP(ペーアソン)も生存していることを知ったヴァリンは喜びのあまり飛び跳ねた(その後すぐにヴァリンたちはペーアソンの潜伏場所に赴き、再会を喜び合った)。
«出典»
アントニー・ビーヴァー 『ベルリン陥落 1945』(白水社・2004年)pp.578-579.
Thorolf Hillblad "TWILIGHT OF THE GODS"(Helion & Co., 2004)pp.106-107., 113-114.
^ ただしスウェーデン の場合、大戦中から戦後にかけてスウェーデンに帰国した武装親衛隊スウェーデン人義勇兵はスウェーデン公安警察 (Säkerhetspolisen )の取り調べを受けた。この公安警察 はスウェーデン王国に対するあらゆる種類の諜報活動 を察知・阻止することを任務にしていたため、帰国した武装親衛隊スウェーデン人義勇兵の政治的信条や、武装親衛隊時代の活動内容、ストックホルム のドイツ 大使館 との関係の有無などを聴取した(ペーアソンも帰国から数ヵ月後の1945年10月、公安警察の取り調べを受けた)。
«出典»
Lars Gyllenhaal, Lennart Westberg "Swedes at War: Willing Warriors of a Neutral Nation, 1914-1945"(ABERJONA PRESS, 2010)p284,297
^ 第二次世界大戦 でこの勲章を受章したドイツ軍 将兵は全軍で計4,556名であり、その中でペーアソンは唯一のスウェーデン人 受章者となった。
^ 1976年4月14日、"Tragedy of the Faithful: A History of the lll.(germanisches)SS-Panzer-Korps"の著者Wilhelm Tiekeへの手紙(同書 p419)。
^ 1976年5月5日、"Tragedy of the Faithful: A History of the lll.(germanisches)SS-Panzer-Korps"の著者Wilhelm Tiekeへの手紙(同書 pp.419-420.)。
^ 1944年春、ナルヴァ戦線 における第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」 の作戦区域で撮影された次の6名の武装親衛隊スウェーデン人義勇兵、すなわち
イェスタ・ボリ (Gösta Borg )
ハンス=カスパー・クルーゲル(Hans-Caspar Kreuger)
ハンス=イェスタ・ペーアソン(Hans-Gösta Pehrsson)
エリク・グンナル・エクレフ(Erik Gunnar Eklöf)
カール・スヴェンソン(Carl Svensson)
トルケル・ティルマン(Torkel Tillman)
が横一列に並んでいる写真の中でペーアソンは最も小柄である。
出典
^ Thorolf Hillblad TWILIGHT OF THE GODS: A Swedish Waffen-SS Volunteer's experiences with the 11th SS Panzergrenadier Division Nordland, Eastern Front 1944-45(Helion & Co., 2004)p12
^ a b c d e f g h Helbert Poller, Martin Månsson, Lennert Westberg "SS-Panzer-Aufklärungs-Abteilung 11 "Nordland": and the Swedish SS Platoon in the Baltic states, Pomerania and Berlin, 1943-1945 (Armoured Reconnaissance With the Waffen-SS on the Eastern Front)"(Leandoer & Ekholm, 2010)p321
^ 渡部義之編『【歴史群像】W.W.II 欧州戦史シリーズVol.18 武装SS全史II[膨張・壊滅編]』(学研・2002年)p64
^ 高橋慶史『続 ラスト・オブ・カンプフグルッペ』(大日本絵画・2005年)p320
^ a b c d e Patrick Agte "Europas Freiwillige der Waffen-SS"(Munin Verlag, 2000)p121
^ a b c d e 同上 p122
^ Marc Rikmenspoel "Soldiers of the Waffen-SS: Many Nations, One Motto"(J.J. Fedorowicz Publishing, 1999)p399, pp.409-411.
^ Wilhelm Tieke "Tragedy of the Faithful: A History of the lll.(germanisches)SS-Panzer-Korps"(J.J. Fedorowicz Publishing, 2001)p417
^ Tieke 前掲書 p419
^ 同上 p420
^ Lars Gyllenhaal, Lennart Westberg "Swedes at War: Willing Warriors of a Neutral Nation, 1914-1945"(ABERJONA PRESS, 2010)pp.273-274.
^ 同上 p274
^ Tieke 前掲書 pp.420-421.
^ a b Agte 前掲書 p123
^ 同上 p124(名鑑章登録通知の写し)参照。
^ Hillblad 前掲書 pp.9-17.
^ Agte 前掲書 p125
^ Adrian Weale "Renegades: Hitler's Englishmen"(Pimlico, 2002)p162
^ 同上 p164
^ Poller, Månsson, Westberg 前掲書 p203
^ アントニー・ビーヴァー(著), Antony Beevor(原著), 川上 洸(訳) 『ベルリン陥落 1945』(白水社・2004年)p452
^ Gyllenhaal, Westberg 前掲書 pp.283-284.
^ Axis History Factbook: Swedish volunteers: Hans-Gösta Pehrsson
^ a b Gyllenhaal, Westberg 前掲書 p284
^ Tieke 前掲書 p423
^ 高橋 前掲書 p321
^ Helbert Poller, Martin Månsson, Lennert Westberg 前掲書 p259掲載の写真解説文参照。
^ Hillblad 前掲書 p114
^ 同上 p115
^ 同上 pp.115-121.
^ a b c Gyllenhaal, Westberg 前掲書 p285
^ Hans Werner Neulen "An deutscher Seite: Internationale Freiwillige von Wehrmacht und Waffen-SS"(Universitas Verlag, München 1985)p398、"Ⅴ Anhang - 6) Bilanz der Säuberungen. Die Hinrichtung von Kollaboration 1944-1984."
^ 芝 健介 『武装SS:ナチスもう一つの暴力装置』<講談社選書メチエ 39>(講談社・1995年)p237
^ a b Poller, Månsson, Westberg 前掲書 p322
^ Marc C. Yerger "German Cross In Gold Holders of the SS and Police volume 3: Regiment and Division "Nordland"(R. James Bender Publishing, 2008)p192
^ Poller, Månsson, Westberg p323
^ Wehrmacht- Awards.com Militaria Forums > Wehrmacht Uniforms and Equipment > Tony Barto SS Uniforms and Insignia Forum Danish Frontfighteremblem w/Swords [1]
^ Encyclopaedia Metallum - Fyrdung - Ragnarok
文献
英語
Thorolf Hillblad "TWILIGHT OF THE GODS: A Swedish Waffen-SS Volunteer's experiences with the 11th SS Panzergrenadier Division Nordland, Eastern Front 1944-45" England: Helion & Company, 2004. ISBN 1-874622-16-7
Marc Rikmenspoel "Soldiers of the Waffen-SS: Many Nations, One Motto" Manitoba, Canada: J.J. Fedorowicz Publishing, 1999. ISBN 0-921991-42-8
Wilhelm Tieke "Tragedy of the Faithful: A History of the lll.(germanisches)SS-Panzer-Korps" Manitoba, Canada: J.J. Fedorowicz Publishing, 2001. ISBN 0-921991-61-4
Adrian Weale "Renegades: Hitler's Englishmen"(Revised Edition) London: Pimlico, 2002. ISBN 0-7126-6764-4
Marc C. Yerger "German Cross In Gold Holders of the SS and Police volume 3: Regiment and Division "Nordland" USA: R. James Bender Publishing, 2008. ISBN 1-932970-07-X
Lars Gyllenhaal, Lennart Westberg "Swedes at War: Willing Warriors of a Neutral Nation, 1914-1945" THE ABERJONA PRESS, Bedford, Pennsylvania 2010. ISBN 978-0-9777563-1-5
Helbert Poller, Martin Månsson, Lennert Westberg "SS-Panzer-Aufklärungs-Abteilung 11 "Nordland": and the Swedish SS Platoon in the Baltic states, Pomerania and Berlin, 1943-1945 (Armoured Reconnaissance With the Waffen-SS on the Eastern Front)" Leandoer & Ekholm Förlag/Publishers, Stockholm 2010. ISBN 978-91-975895-5-0
ドイツ語
Patrick Agte "Europas Freiwillige der Waffen-SS: Biographien aller Inhaber des Ritterkreuzes, des Deutschen Kreuzes in Gold, der Ehrenblattspange und der Nahkampfspange in Gold, die keine Deutschen waren" Deutschland: Munin Verlag, 2000. ISBN 3-9807215-0-7
日本語
関連項目