第11SS装甲偵察大隊
第11SS装甲偵察大隊(独:SS-Panzer-Aufklärungs Abteilung 11)は、第二次世界大戦中のナチスドイツ武装親衛隊の師団の1つである第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」所属の偵察大隊。北欧出身の外国人義勇兵と南東ヨーロッパの民族ドイツ人が多く勤務した「ノルトラント」師団の中でも特にスウェーデン人義勇兵が多く勤務していた部隊として知られる。 1945年5月2日、ベルリン市街戦の最終局面であるベルリン脱出戦において全滅した。 創設背景1943年前期、武装親衛隊の新たな師団の一つとして「ノルトラント」師団の編成が開始されると、師団所属の偵察部隊の編成も開始された。当初は5個中隊から成るSSオートバイ兵連隊(SS-Kradschützen-Regiment)として編成計画が進められたが、1943年6月にオートバイ兵連隊としての編成は中止[1]となり、代わって装甲偵察車を装備した偵察部隊として編成が進められた。 「ノルトラント」師団本隊がニュルンベルク近郊のグラーフェンヴェーア(Grafenwöhr)に駐屯している間に第1~第4の4個中隊は編成されたが、最後の第5重兵器中隊は、「ノルトラント」師団がクロアチアで訓練及び対パルチザン戦を実施していた1943年9月~10月になってようやく編成された[2]。 大隊指揮官は1942年11月まで「ヴィーキング」師団装甲偵察大隊の中隊長を務めていたルドルフ・ザールバッハSS大尉(SS-Hauptsturmführer Rudolf Saalbach)であった。 各中隊の構成ジークフリート・ローレンツSS中尉(SS-Obersturmführer Siegfried Lorenz)の第1偵察中隊(Späh-Kompanie 1)は、20mm機関砲と機関銃を搭載した8輪装甲偵察車を装備した4個小隊から成る中隊であった。 ハインリヒ・ヘックミュラーSS中尉(SS-Ostuf. Heinrich Heckmüller)の第2偵察中隊も同様の構成であったが、こちらの装備は半装軌車型の装甲兵員輸送車(Sd Kfz 250)であった。 なお、第1、第2中隊はいずれも対地・対空戦闘両用の20ミリ機関砲を装備していた。 ヴァルター・カイザーSS少尉(SS-Untersturmführer Walter Kaiser)の第3装甲擲弾兵中隊(Panzergrenadier-Kompanie 3)は、装甲兵員輸送車(Sd Kfz 250)を装備した第1~第3装甲偵察車小隊と、迫撃砲・重機関銃を装備した第4小隊から成る約160名の中隊であったが、最大の特徴は中隊の構成人員であった。第1~第3小隊の人員はルーマニア出身の民族ドイツ人で、第4小隊の人員はスウェーデン人義勇兵であった。とりわけ第4小隊はスウェーデン人将校のハンス=イェスタ・ペーアソンSS少尉が小隊長を務めていたことも相まって、非公式ながらスウェーデン小隊(Schwedenzug)と呼ばれた。また、第3中隊にはスイス人義勇兵が何名か所属していたほか、大戦末期にはイギリス人部隊(小隊規模)である「イギリス自由軍」(British Free Corps)の(ごく一部の)隊員も第3中隊に勤務したことが明らかになっている。 ヨハネス・マックス・シャールシュミットSS中尉(SS-Ostuf. Johannes Max Scharschmidt)の第4装甲擲弾兵中隊の構成は、人員以外は第3中隊とほぼ同様であった。 ハンス・シュミットSS中尉(SS-Ostuf. Hans Schmidt)の第5重兵器中隊(schwere-Kompanie 5)は、75mm対戦車砲を4門装備した戦車猟兵小隊、75mm軽歩兵砲を6門装備した軽歩兵砲小隊、火炎放射器を装備した戦闘工兵小隊、そしてSd Kfz 251/9(24口径7.5cm砲搭載支援車輌)を8輌装備した小隊で構成されていた。
戦歴第二次世界大戦中、第11SS装甲偵察大隊は装甲車を多く保有する高機動部隊として、エストニア、クールラント、ポメラニアの各戦線において側面援護、即時反撃、後退戦闘などの分野で活躍した。また、第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」の中でも最良の部隊の一つであったことから、「ノルトラント」師団以外の部隊の支援に派遣されることもあった。 クロアチアでの活動訓練と対パルチザン戦1943年8月末、「ノルトラント」師団が所属する第ⅢSS装甲軍団(フェリックス・シュタイナーSS大将)は命令によってクロアチアへ移動し、9月初旬には連合軍との和平に合意した現地のイタリア軍の武装解除を命じられた。この時、第11SS装甲偵察大隊は「ノルトラント」師団本部とともにクロアチア中央部の都市シサク(Sisak)に宿営した。 1943年9月15日、大隊の第2・第3中隊はシサクから25キロメートル離れた山岳地帯に移動した。彼らはここで訓練、陣地の設営、移動車列の警護などを行った。10月11日に第2中隊はTopolavatsch、第3中隊はその隣村に移動したが、ここでも警護任務、陣地の設営、そして訓練が続けられた。 1943年10月15日、第2・第3中隊は警報を受けた。彼らの陣地から4キロメートル離れた場所にある鉄道橋が爆破されたのである。このため第2・第3中隊は2つの村を防衛するため出発した。 1943年10月24日、新たな警報を受けた第11SS装甲偵察大隊は行動可能な全車両をもってサヴァ川に沿ってシサクから40キロメートル南下し、パルチザンのキャンプを攻撃した。しかし、大隊の部隊が目標に到達した時、2名のパルチザンを除いてキャンプはもぬけの殻であった。 1943年11月初旬、第11SS装甲偵察大隊は戦闘車両を受領した。第1中隊には8輪装甲偵察車が配備され、その他の中隊には半装軌車(Sd Kfz 250およびSd Kfz 251)が配備された[3]。 レニングラード戦線への出発1943年11月末、第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」はレニングラード戦線へ向かうよう命じられた。師団の各中隊は国防軍のコサック義勇兵部隊と順次交替したが、再びパルチザンの行動が活発となったため、「ノルゲ」連隊や「ダンマルク」連隊をはじめ、師団の装甲部隊は移動する車列の警護に当たった。第11SS装甲偵察大隊第2中隊も車列の警護に当たっていたが、12月初旬にクロアチアの首都ザグレブ(アグラム)で列車に乗車し、クロアチアから出発する「ノルトラント」師団の最後の部隊の一つとしてレニングラード戦線へ向かった。 1944年1月 レニングラード戦線オラニエンバウム撤退戦1944年1月14日、レニングラード近郊のオラニエンバウムにおいてソビエト赤軍がドイツ北方軍集団の包囲網を破ると、「第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」が所属する第ⅢSS装甲軍団は西進するソビエト赤軍と交戦した。 1944年1月22日、第11SS装甲偵察大隊はソビエト赤軍の猛攻の矢面に立たされているマクシミリアン・ヴェングラー大佐(Oberst Maximilian Wengler)(ドイツ第18軍の兵器学校の責任者)の戦闘団に編入された。ヴェングラー大佐は第11SS装甲偵察大隊に対し、ペコロヴォ(Pekkolovo/Пекколово)近郊に集結中のソビエト赤軍部隊を攻撃するよう命じた。そこで大隊長ルドルフ・ザールバッハSS大尉は大隊を以下の二つの戦闘団に分けた[4]。
この2個戦闘団はペコロヴォ近郊に進出し、ドイツ軍の反撃を予想していなかったソビエト赤軍部隊を駆逐した。当時の隊員は次のように述懐している[5]。
その後、さらに奥地に進んだ偵察隊がグバニツィ(Gubanizy/Губаницы)南部において大規模なソビエト赤軍戦車部隊が集結していることを明らかにしたため、第11SS装甲偵察大隊はグバニツィに布陣した。 1944年1月25日、警報を受けた第11SS装甲偵察大隊は同日の午後にグバニツィ東部の半円陣地を確保したが、同日の夜に東から戦車の接近音を耳にした。明らかにソビエト赤軍の大規模攻勢が行われる予兆であった。このため、大隊は約束されていた「ノルトラント」師団の突撃砲の増援を待った。 1944年1月26日 第5中隊の奮戦しかし翌26日早朝、朝もやの中から現れたのはドイツ軍の装甲車両ではなく、歩兵を満載して猛スピードで進軍するソビエト赤軍戦車部隊であった。ザールバッハSS大尉の第11SS装甲偵察大隊は、グバニツィ郊外で明らかに迫り来る敵装甲部隊の攻撃を待ち構えた。約束の増援部隊は到着していない。そして、この日の戦闘の目撃者は次のように述懐している[6]。
かくして1944年1月26日朝、第11SS装甲偵察大隊はグバニツィ郊外で61両[7](資料によっては56両[8]、54両[9])のソビエト赤軍戦車と交戦し、そのうち48両(資料によっては31、34両)を撃破した。そのうち11両は負傷したシュミットSS中尉に代わって中隊を指揮したゲオルク・ランゲンドルフSS少尉(SS-Ustuf. Georg Langendorf)の第11SS装甲偵察大隊第5中隊のオランダ人SS兵長カスペル・スポルクが指揮するSd Kfz 251/9が討ち取ったものであった。この戦闘における功績により、後にカスペル・スポルクSS兵長には1944年1月30日付で二級鉄十字章と一級鉄十字章が授与され、第5中隊長ランゲンドルフSS少尉には1944年3月12日付で騎士鉄十字章が授与された(なお、大隊長ザールバッハSS大尉も1944年3月12日に騎士鉄十字章を授与されるが、それは3月12日から19日にかけてエストニアのHungerburgでの戦闘の功績によるものとされている[10])。 この時、第5中隊以外の中隊は随伴歩兵大隊を相手にしていたが、その戦闘における功績により、第1中隊長ジークフリート・ローレンツSS中尉にはドイツ十字章金章の受章が約束された。 ナルヴァへの後退1944年1月27日、シュタイナーSS大将の第ⅢSS装甲軍団は後退を開始し、第11SS装甲偵察大隊の戦闘車両は「ヴェングラー」戦闘団および第502重戦車大隊の後退活動を援護した。第502重戦車大隊のティーガーIが列車でナルヴァへ輸送された後、後衛を務めていた第11SS装甲偵察大隊もエストニア国境へたどり着いたが、そこで「ヴェングラー」戦闘団における任務は終了し、第11SS装甲偵察大隊は本隊である「ノルトラント」師団の指揮下に戻った。 1944年2月~7月 ナルヴァの戦いナルヴァの戦いにおいて「ノルトラント」師団本隊はナルヴァ市に布陣したが、第11SS装甲偵察大隊はナルヴァ西方に配置された。 ナルヴァ市防衛に伴ってドイツ国防軍(陸軍、空軍、海軍)および武装親衛隊の諸部隊が移動した後、ナルヴァ西方のバルト海沿岸地域にはエストニア警察大隊、海軍沿岸砲台部隊、「ベルリン」戦闘団[11]、海軍大隊などの部隊が配置され、クリスチャン・P・クリッシングSS上級大佐(SS-Oberführer Christian Peder Kryssing)(デンマーク人)が指揮を執る「キュステ」戦闘団(Kampfgruppe Küste)の指揮下に置かれた。ちなみに、クリッシングSS上級大佐の息子ニルス・クリッシングSS少尉(SS-Ustuf. Niels Kryssing)は第11SS装甲偵察大隊第1中隊に小隊長として勤務していたが、1944年1月下旬に負傷し、ヴォロソヴォ(Wolossowo/Волосово)からヤンブルク(Jamburg/現ロシア領キンギセップКингисепп)への後送中に敵に捕捉されて行方不明となった。 ソビエト赤軍のメレクラ上陸作戦1944年2月13日から14日の夜間、駆逐艦の護衛を伴った蒸気船12隻に搭乗したソビエト赤軍部隊がナルヴァ市西方のメレクラ(Mereküla/Meriküla)という小さな漁村の近郊において上陸作戦を開始した。これによってクリッシングSS上級大佐の「キュステ」戦闘団司令部には電話連絡が殺到し、メレクラで包囲された「ベルリン」戦闘団からの救援要請、海軍大隊2個の壊滅などの報告が次々と寄せられた。そこで「キュステ」戦闘団作戦将校のポウル・エンゲルハルト=ランツァウSS少佐(SS-Sturmbannführer Poul Engelhardt-Rantzau)(デンマーク人)は、メレクラから程近いプーコヴァ(Puhkowa/Puhkova)に駐屯中の第11SS装甲偵察大隊を防衛戦闘に投入した。 1944年2月14日午前9時、メレクラ近郊に上陸したソビエト赤軍部隊に対するドイツ軍の攻撃が開始された。北東部からはエンゲルハルトSS少佐率いる戦車3両および歩兵30名が、南西部からは第11SS装甲偵察大隊がそれぞれ攻撃を開始した。この時、メレクラがすでにソビエト赤軍に占領されているという誤報を受けたドイツ空軍のシュトゥーカによる友軍部隊誤爆が発生したが、1時間後の午前10時にドイツ軍はソビエト赤軍の上陸作戦を頓挫させることに成功した。 1944年4月19日、ソークラ(Sooküla)において第11SS装甲偵察大隊第3中隊長ヴァルター・カイザーSS中尉が戦死したため、第4小隊長ハンス=イェスタ・ペーアソンSS少尉が代行の第3中隊長となった。その後、5月から6月にかけて第11SS装甲偵察大隊は休養のためシッラマエ(Sillamäe)に移動した。 リトアニアでの戦闘1944年6月22日、ソビエト赤軍は夏季大攻勢バグラチオン作戦を発動し、7月10日にはリトアニアの首都ヴィリニュス北部およびラトビアのダウガフピルス南部に進出し、ドイツ北方軍集団と中央軍集団を繋ぐ地域を制圧した。それより以前にドイツ北方軍集団司令官ゲオルク・リンデマン上級大将はヒトラーに対し、包囲回避のために第16軍および第18軍の後退を要求し、さらにナルヴァ軍支隊(Armeeabteilung Narwa)をリトアニアのメーメルまで海上輸送させるべきと説いた。しかしヒトラーはこれらの進言を拒否し、北方軍集団と中央軍集団との連絡の再構築を命じたほか、進出したソビエト赤軍を北方軍集団が攻撃するよう命じた。 そのため、第16軍所属の「クレッフェル」集団(Gruppe General Kleffel)がドイツ第II軍団(北方軍集団)および第IX軍団(中央軍集団) 間の空白地帯を埋めるために動員されたが、その先鋒部隊に第11SS装甲偵察大隊も編入された。彼らは「ザールバッハ装甲団」(Panzergruppe Saalbach)として7月13日に移動を開始し、シュトックマンショフ(Stockmanshof/現ラトビア領Koknese)およびヤコブシュタット(Jakobstadt/現ラトビア領Jēkabpils)を経て、7月14日にはリトアニア国境を越えてローキシュキス(Rokiškis)地区に入った。その後、第11SS装甲偵察大隊は7月31日にエストニアへの帰還を命じられるまでリトアニアで戦闘を続けた。当時の隊員ハンス・シュテンパー(Hans Stemper)はリトアニアでの行動を次のように述懐している[12]。
しかし、第11SS装甲偵察大隊が北方軍集団の南翼を援護している間の1944年8月1日に、ソビエト赤軍はTuccumにおいてバルト海に到達した。 タルトゥの戦い1944年8月初頭、第11SS装甲偵察大隊はバウツ(Bauts)、メイデン(Meiden)、ミタウ(Mitau)、リガ、ヴェンデン(Wenden)、ヴァルク(Walk)、タルトゥ、ジョーヴィ(Johvi)を経由してヴァイヴァラ(Vaivara)まで鉄道輸送され、8月14日にはペイプシ湖近郊に展開する「ヴァーグナー」戦闘団(第4SS義勇装甲擲弾兵旅団「ネーデルラント」司令官ユルゲン・ヴァーグナーSS少将)に編入された。この時のヴァーグナー戦闘団の編成は次の通り[13]。
タルトゥ市北部のマーリヤ・マグダレーナ(Maarja-Magdaleena)で燃料と弾薬の補給を受けた後、第11SS装甲偵察大隊はエンバッハ(Embach)橋を渡ってラピナ(Raepina)へ向かい、8月16日にはプレスカウ湖(Pleskau See)から上陸したソビエト赤軍と交戦した。第3中隊のフランツ・ベレズニャークSS伍長(SS-Uscha. Franz Bereznyak)はタルトゥ戦区での戦闘を次のように述懐している[14]。
この時、「戦車伯爵」ヒアツィント・シュトラハヴィッツ少将率いる戦車部隊(Panzer-Verbond Graf Strachwitz)はリガで戦っていたが、エストニアへ緊急輸送され、8月23日にはタルトゥ南部のエルヴァ(Elva)へ到着した。シュトラハヴィッツ少将は自分の戦車部隊およびSS戦車旅団「グロス」(SS-Pazer Brigade "Gross")、そして第11SS装甲偵察大隊をもってソビエト赤軍の進出を食い止めようとした(しかし、その準備中にシュトラハヴィッツ少将は交通事故に巻き込まれ、指揮官の座を離れざるを得なくなった)。 1944年8月25日、第11SS装甲偵察大隊第5中隊のベルトルト・ベーンケSS伍長(SS-Uscha. Berthold Behnke)は、7.5cm対戦車砲でタルトゥ野戦飛行場を防衛していた。やがて彼らはソビエト赤軍の攻撃を受けたが、ベーンケと彼の対戦車砲兵はうろたえず、臨機応変に砲を移動させてソビエト赤軍部隊を撃退した。また、8月26日には第5中隊のヴァルター・シュヴァルクSS連隊付上級士官候補生(SS-Standartenoberjunker Walter Schwarck)が1個小隊を指揮し、タルトゥ近郊のハーゲ(Haage)において苦戦中のドイツ国防軍部隊を救出した。その後も第11SS装甲偵察大隊は危機に直面している場所を休むことなく転戦した。 しかし、1944年9月初旬、ソビエト赤軍は秋季攻勢に向けた再編成を開始した。 ソビエト赤軍の秋季攻勢は、ドイツ北方軍集団第18軍の部隊、とりわけエストニア東部に位置しているナルヴァ軍支隊および第ⅢSS装甲軍団にとって非常に脅威的なものであった。 エストニアからの撤退1944年9月18日、エストニアからの撤退作戦「アスター」が発動された。この時、第11SS装甲偵察大隊はリガ-タルトゥ間において再度ソビエト赤軍の進出を食い止めていたが、それ以上の抵抗は不可能であった。 1944年9月19日晩、第11SS装甲偵察大隊第5中隊はナルヴァ西方の防衛線「タンネンベルク線」(Tannenbergstellung)から撤退する第ⅢSS装甲軍団の後衛部隊としてヴェーゼンベルク(Wesenberg)西方に配置された。彼らは即時反撃によって敵の追撃を阻止した後の9月20日午前2時、大隊に合流せよとの無線連絡を受け取った。そして大隊に合流して補給を済ませた第5中隊のヨーゼフ(ゼップ)・シルマーSS少尉(SS-Ustuf. Josef "Sepp" Schirmer)にある任務が課せられた。それは後続の突撃砲10両が通り過ぎるまで橋を守りきり、その後に橋を爆破せよというものだった。 現地に着いたシルマーSS少尉は道の両脇に部下を布陣させ、併せてSd Kfz 251/9と、7.5cm対戦車砲も配置させた。それから彼らは2時間余り待機したが、いくら待てども突撃砲は1両も現れなかった。その代わりに断続的な小火器の発射音が聞こえてきたため、シルマーSS少尉は大隊本部に無線連絡し(橋の爆破許可を得ようとし)たが、大隊本部の回答は「(橋を爆破する時は)爆破命令に従え!」であった。シルマーSS少尉は設置した爆薬の導火線を短くしようとして橋に近寄ったが、その時に敵歩兵の銃撃を受けた。未だに突撃砲は現れておらず、非常に危険な状況となったため再度大隊本部に連絡したが、回答は同じであった。 しかし、シルマーSS少尉が橋に再度近寄った時、ようやく1両の突撃砲が姿を現した。続いて2両の突撃砲も現れたが、彼らは来た道の方を向き、発砲を開始した。彼らの背後からは4両のソビエト赤軍戦車が迫っていたのである。敵歩兵の銃撃が激しさを増す中、最初の突撃砲が橋を渡り、対岸から残りの2両を援護した。最終的に残りの2両が橋を渡った時、突撃砲指揮官の陸軍少尉が叫んだ。「橋を爆破しろ!俺達が最後だ。他の7両の突撃砲は北へ向かったのを無線で確認した!」 その時、1両のT-34が橋までわずか80メートル地点まで迫っていた。1番目と2番目の信管を作動させたシルマーSS少尉は急いで走り、橋から40メートル離れた地点で爆発から身を守った。爆破された橋の破片によって拳銃のグリップが破損したものの、シルマーSS少尉自身は無事であった。こうして任務を成し遂げた彼らは大隊に復帰した。 その後、第11SS装甲偵察大隊は「ブンゼ」戦闘団(第4SS義勇装甲擲弾兵旅団「ネーデルラント」)と共にパルヌ地区で防衛戦闘を行ったが、9月23日にはパルヌが、24日にはハープサルがそれぞれソビエト赤軍の手に落ちた。また、リガにもソビエト赤軍が進撃していたことから、ドイツ軍はバルドネ(Baldone)近郊に新たな戦線を構築した。 クールラント会戦
ポメラニア戦線
ベルリン市街戦
高位勲章受章者ここでは、一般的にドイツの高位勲章とされている騎士鉄十字章(Ritterkreuz)、黄金ドイツ十字章(Deutsches Kreuz im Gold)、ドイツ陸軍名鑑章(Ehrenblatt Spange des deutschen Heeres)、白兵戦章金章(Nahkampfspange des Heeres in Gold )を受章した第11SS装甲偵察大隊の将兵の氏名を記す。なお、階級と役職は受章当時のものである。 騎士鉄十字章
黄金ドイツ十字章
ドイツ陸軍名鑑章
白兵戦章金章
註
参考文献
|