ハリー・カーネイ
ハリー・ハウエル・カーネイ(Harry Howell Carney:1910年4月1日 - 1974年10月8日[1])はアメリカ合衆国のジャズ・ミュージシャン。主にデューク・エリントン楽団での45年間の活動で知られている。初期にはアルトサックス、クラリネット、バスクラリネットも演奏したが、後にバリトン・サックスを演奏するようになり、バリトン・サックスにおける名人芸は後進の世代に影響を与えた。 生涯デビュー前1910年4月10日にマサチューセッツ州ボストンで生まれ[1]、将来バンド仲間となる、4歳年上のジョニー・ホッジスと幼馴染として幼少期を過ごした[2]。6歳でピアノ、13歳でクラリネット、14歳でアルト・サックスを学んだ[1]。その後、ボストン市内のクラブにて、初めて演奏者として演奏した[1]。 初期の演奏は、クラリネット奏者であるバスター・ベイリー(Buster Bailey)やシドニー・ベシェ、ドン・マレイ(Don Murray)に影響を受けた[3]他、バリトン・サクソフォンの演奏については、コールマン・ホーキンスやエイドリアン・ロリーニに影響を受けたと後に語っている[4]。 デビュー後![]() 17歳でニューヨークで多くのギグをこなした後、1927年にボストンでエリントン・オーケストラへ招かれた[5][注 1]。加入直後である同年10月に行われた最初のセッションの場で、エリントンと録音した[5]。同年末からエリントン・オーケストラはニューヨークのコットン・クラブで活動し始めた[5]。 オットー・ハードウィックがバリトン・サックスを担当している間、クラリネットの他にアルト、ソプラノ・サックスを担当した。初期にはクラリネットでルビー・ジャクソン(Rudy Jackson)と、アルト、ソプラノ・サックスでハードウィックと比較された。一例にはカーネイがアルト、ソプラノを、ハードウィックがバリトンを担当した『Blue Bubbles』(1927)がある。 1928年に、エリントンが新たなメンバーを加えてから、カーネイはバリトン・サクソフォンを主に演奏するようになった[5]。このときから、バリトン・サクソフォン奏者としての地位を確立し、1940年代中盤にビバップが成立するまでは、右に並ぶ奏者はいなかった[7]。エリントン楽団の中でも、カーネイが明確に低いピッチで演奏するバリトンの音は、その音よりも高い音色のハーモニーを奏でる際に度々採用され、それによって、バンドの音色の質感が変化した[8]。 ハードウィックが1928年にエリントン・オーケストラを去りヨーロッパに行くと、カーネイはリード・アルトを、ホッジスはアルト、ソプラノ・サックスをメインに演奏するようになった。カーネイは『Hot Feet』では、バーニー・ビガードから借り、珍しくテナー・サックスを吹いている。1928年から1942年まではビガードが花形クラリネット奏者だったが、たまにカーネイがクラリネット・ソロを取ることもあった。『Bugle Call Rag』『Rexatious (with Rex Stewart)』『Creole Love Call』(1932)『I Don't Know What Kind of Blues I've Got』『It's Like Reaching For The Moon (with Teddy Wilson and Billie Holiday)』などがそうである。『Saddest Tale』でアルト・クラリネットを、『Blue Light』(1938)でバスクラリネットを吹いている。 1938年1月にカーネギー・ホールにて行われた、ベニー・グッドマン率いるバンドの演奏会に招待された[9]。 エリントン・オーケストラがベン・ウェブスターなど五名のソロを大々的に扱うようになると、カーネイのソロは1930年代よりは減った。1939年後半にはウェブスターが、後にはポール・ゴンザルヴェスがテナーを吹いた。1940年代初頭にカーネイはアルトをやめ、ホッジスはソプラノを放棄した。カーネイが共作した『Rockin' in Rhythm』ではクラリネットを吹き、ツアーではいつも人気曲であった。 1932年にハードウィックが戻るとアルトサックスでの演奏の機会は減った。ただ、スチュワートとの1940年のセッションでは『Linger Awhile』『My Sunday Gal』でアルトを担当した。1943年の小品『Symphony in Swing』でもアルトを担当したが、そのあとアルトをやめてしまった。デューク・エリントンの父であるマーサー・エリントンは、自伝でこのことを「彼の音色がサックス・セクションを完全なものにしていたのに」と、残念がっている。 キャリアの後半において、バスクラリネットやクラリネットもたまに演奏したものの、カーネイはバリトン・サックスに専念した。1940年代には『Mood Indigo』『Creole Love Call』『Sugar Hill Penthouse』『The Mooche』『Rockin' in Rhythm』などでクラリネット・ソロを取っている。その後はRussell Procopeのニューオリンズ・スタイルのクラリネットに取って代わられた。 1944年頃には、バス・クラリネットに本腰を入れ[3]、同楽器のパイオニアの一人になった。 1957年に、カーネイはビリー・テイラーが率いるバンドに加入し、Taylor Made Jazzの演奏に参加した[10]。 カーネイはエリントン・オーケストラに最も長く所属した[3]。デュークが休む時には楽団の指揮を務めた[要出典]。デュークとは親友だった。メンバーは通常ツアーバスで移動したが、デューク自身はカーネイの運転する車でそれぞれ移動していた[11]。こういった車の旅はジェフ・ダイヤー『But Beautiful: A Book About Jazz|But Beautiful』(1991)(日本語訳:村上春樹訳、ジェフ・ダイヤー『バット・ビューティフル』新潮社2011年刊)でフィクションとして記録されている。 『Frustration』(1944)など多くの曲がカーネイのために書かれた。この曲は、特定のプレーヤーに合うように作曲するというデュークの姿勢が表れた典型の一つである。『Sophisticated Lady』『In a Mellow Tone』などではカーネイのガッシリした演奏をフィーチャーしている。1973年の『Third Sacred Concert』はカーネイのバリトン・サックスを中心に構成された[12][13]。 1974年にデュークが死去した際、カーネイは「デュークがいなけりゃ生きる意味がない」と発言した[5]。カーネイの最後の演奏は、アルバム『Continuum』において、マーサーの指揮下で行われる予定であった[3]。 デュークの死去から4か月後になる1974年10月8日に、ニューヨークで亡くなった[1]。 没後の影響![]() カーネイの演奏は後進の数世代に影響を与えた。キャリアを通して彼はC.G. Connの楽器を使い、好みのブランドに発注していた。マウスピースはニューヨークのウッドウィンド社(Woodwind Company)のものだった。種類はSparkle-Aire' 5である。大きなマウスピースとコン・ブランドは彼の巨大で豊かなトーンの秘密の一つだった。 彼は循環呼吸の提唱者だった[13]。ハミエット・ブルイエットは好きなバリトン演奏者としてカーネイを挙げており、その理由として、ハミエットが観に行ったカーネイのコンサートにて、観客が全員静かになっている状態で演奏しているのを見て「カーネイが時間を止める」と思ったからだと述べている[14]。 カーネイはリーダー作品をいくつか残しており、ライオネル・ハンプトンとも録音した。 カーネイの死去から2か月後、ベーシストであるチャールズ・ミンガスは、サイ・ジョンソンが作曲した哀歌『For Harry Carney』を演奏し、自身のアルバム『Changes Two』に収録した[15]。 作品指揮者として演奏者としてジョニー・ホッジスとの共作
その他
脚注注釈出典
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