ネ (称号)ネ(根、禰、泥、尼)は古代日本の称号(原始的カバネ)の一つで人名、氏名あるいは神名の語尾に付けられる。「古い時代の首長の称号の一種」で[1]、起源的には「英雄的首長」の称号と考えられる[2]。ネの称号は氏族系譜や神話創作の過程で抽象化された始祖名や擬人化された神名にも使われた。成務天皇代のカバネ制度導入において「ネ」の称号は他の称号に取って代わられ、「スクネ(宿禰」)のみが残されたと考えられる。 概説「ネ」の人名(先祖名)は軍事的政治的長としての国造家や軍事的氏族である物部氏族に集中的に見られる。「ネは力強いもの、すぐれた能力をもつものに関わる概念で、それが現実の首長に向けられた時」、「現実的な力によって人々を統率した英雄的首長」の称号と考えられる[3]。英雄的首長につけられたネの称号は呪術的首長に付けられた「ミ」と「ほぼ同時期同地域に、同じく首長の称号として併存して」いる[4]。そして「ネを名乗る人名の例は、殆んど全て応神天皇以前に限られるという時代的特色をもっている」。このため「ネ」の称号は「三、四世紀における各地の豪族」たちの称号であったと考えられる[5]。ネの称号は三、四世紀の大和政権下で「オオネ(大禰、大尼)」[6]、「スクネ(少名、宿儺、宿禰、足禰、足尼)」、「トネ(刀禰、戸根、等禰)」等の派生的称号を生み出したと考えられる。 ネをもつ人名は大きく3つに分類できる。
ネの称号は氏族系譜の抽象的始祖名に出てくる。たとえば凡川内国造氏の始祖天津彦根・「アマツヒコネは、”アマツヒコ”即ち天に由来する立派な男という美称にネの称号がついたもので、”〜ネ”を祖先にもつ豪族の始祖として作為的に系譜づけられたと思われる」[8]。 ネはさらに「自然崇拝を示す語になったり、後に”神”の範疇に入れられた架空の象徴的人物の称号につけられ」神名や神社名になったと考えられる。 ネの称号はノの称号とも関係が深く、「ネとノは共にほぼ同時期に同地域の首長級の人達の呼称である。[9]」 国造りの首長としてのネ「ネ」の人名が国造や地域を代表する氏祖として古事記、日本書紀、新撰姓氏録等に50例ほど、旧事紀国造本紀には32例が集中して見られる。[10]ネの国造はその軍事力により国を支配したと考えられる。
物部氏族系譜のネネの称号は氏族系譜の中で応神天皇期以前の先祖名に特徴的に出現する。軍事的氏族を代表する物部氏族において「ネ」は「オオネ(大尼、大禰)」、「スクネ(足尼、宿禰)」という称号で特徴的に頻出する。先代舊事本紀、天孫本紀によれば大和政権は足尼(神武天皇代)、宿禰(孝安天皇または成務天皇代)[37]そして大尼(開化天皇代)[38]または大禰(崇神天皇代)[39]の称号または官号を定め、物部諸氏に任命したという。足尼には物部氏初代の「宇摩志麻治」[40]と2代目の「彦湯支(目開)」[41]また4代目の「三見」[42]などを任命した。宿禰は三見足尼に始まり、「大矢口」[43]、また「多辨」や「膽咋」[44]を任命した。大尼または大禰には「大峰」や「大綜杵」[45]また「武建」や「建膽心」を任命したという。 「足尼」は天皇の「近宿殿内」の人に対する称号と述べられている[46]。これは後代に天皇を「近宿殿内」で護衛する「舎人」の称号に相対する。「足尼」はこれまで「スクネ」と考えられてきたが、「舎人」と同じ「トネ」に対する当て字の可能性もある[47]。 「宿禰」ははじめ(孝安天皇代)称号であったが、後(成務天皇代)にはカバネとなった[48]。「宿禰(スクネ)」は6〜7世紀の「大兄(オオエ)」に対する「小兄(スクナエ)」に相当する称号とこれまで解釈されてきた。[49]。「大(オオ)」に対する「小(スクナ)」の対比は「大禰(オオネ)」に対し「小禰(スクネ)」ともなる。「大禰」と「小禰」は後の「大将」と「少(副)将」に対応する。したがって「宿禰」は副将軍的意味合いの「小禰(スクネ)」に由来する可能性がある[50]。 「大禰」は崇神天皇代に初めて作られ「建膽心」が任命され、同時代に「多辨」が宿禰(小禰)に任命されたと伝えられている[51]。崇神天皇以前は「大尼」(将軍)という称号があり、崇神天皇からは「大禰」(大将)と「小禰」(少将)の称号に分けられたと解釈可能である。 地域の英雄的首長としてのネネの名前が地名を負う場合、人名や始祖名というよりもその地域の英雄的軍事的長の称号と考えられる。地名を負ったネ(ネコ)の首長は下の表の例が知られている。
神名としてのネ延喜式神名帳や古事記、日本書紀等の古代文献には多くの神名や神社名が残されている。それらから「武」、「天」、「大」、「命」、「別」等の美称を除くと、ネ(根、禰、泥、尼、那、邇)の語尾をもつ、以下の名称が見出される。「これらの神名は、自分達の首長をネと呼ぶ人たちによって作り出されたもの」と考えられる[3]。
「ネ」から「ヌ」・「ノ」へ古事記、日本書紀、粟鹿大明神元記等の古代文献には「ネ」の他に「ノ」や「ヌ」を語尾にもつ先祖名や神名が見出される。とりわけ「出所の明確なノの例は全て出雲」関係である。出雲において「ネ」はヌやノに転訛したものを見ることができる。天之葺根は天之冬衣と同一人物と考えられ、フキ「ネ」がフユキ「ヌ」へ転訛している。また宇迦都久怒と宇賀都久野も同一人物と考えられ、ウカツク「ヌ」がウガツク「ノ」へ転訛している。ゆえにネはヌを経てノに転訛したと考えることができる。しかし出雲系譜にはもう一つの古い称号「ミまたミミ」から「ヌ」および「ノ」への転訛が見られる。布努都弥美は布怒豆怒と考えられ、フノツ「ミミ」がフノズ「ノ」に転訛している。ここから推察できるのは「ネ」と「ミ」の併立的首長の称号を出雲では「ノ」または「ヌ」の単一的称号に統合したと考えられることである。
脚注
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