粟鹿大明神元記『粟鹿大明神元記』(あわがだいみょうじんもとつふみ)は、但馬国朝来郡(現・兵庫県)の粟鹿神社の社家に伝わる古文書。 概要和銅元年(708年)に、粟鹿神社祭主の新羅将軍正六位上神部直根マロ(マロの字は門がまえに牛、三輪根麻呂か[1])が編纂した書物で、粟鹿神社の祭神・天美佐利命についてや、神社の縁起が記されている[1]。また、伊佐那伎命・伊佐那美命から始まる神部氏(みわべし)の竪系図が残されている。成立年が正しければ、記紀に先行する書物となるものの、これに否定的な意見も存在する[1][2]。 元々は九条家の蔵に保管されていたのを、昭和30年(1955年)に是澤恭三が発見し、現在は宮内庁の書陵部に保管されている[1]。 研究是澤恭三は、九条家の文庫中に九条家本『元記』を発見し、また別種の谷森本『元記』が宮内庁書陵部に架蔵されていることを知って、昭和30年(1955年)に「粟鹿神社祭神の新発見」、昭和31・2年(1956年・1957年)に「粟鹿大明神元記の研究」、昭和33年(1958年)に「但馬国朝来郡粟鹿大明神元記に就いて」という3つの論文を発表した。是澤恭三の九条家本『元記』に関する論及は多岐にわたるが、
田中卓は、「古代氏族の系譜-ミワ氏族の移住と隆替-」という論考を発表し、『元記』の主要部分をなす系譜部分は記紀や『先代旧事本紀』などの古文献と異同を含む独自な所伝が少なくなく、系譜の書法における『上宮記』逸文との類似、神功皇后の「天皇」の称、「弥」の特殊仮名遣いなどから、頗る貴重な古文献と認めうると判定した。更に、
と主張した[7]。 瀬間正之は当文献を上代語資料と扱うべきかどうかを文字表記の観点から検討し、上代特殊仮名遣を用いている箇所の正確性について考察した。その結果、「以上榛氏之神宅之印」以前の記述(櫛甕戸忍勝速まで)の表現方法が「娶…」でありそれ以降は「母曰…」となっていること、神名において「移・希・比弥[注 1]」などを始めとする仮名の用例が『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』『正倉院文書』『上宮記』逸文、天寿国曼陀羅繍帳銘や元興寺露盤・丈六光背銘といった他の上代語資料にも見られるものであることなどから、「以上榛氏之神宅之印」までの系図の神名は記紀と同じく上代語資料としての価値があり、当文献を作成するにあたって参照された元となる上代語資料が引き継がれているとした。一方、「以上榛氏之神宅之印」以後の記述は上代語資料とは認めがたい表現であること、天皇の漢風諡号や国号に問題点が生じることなどから、和銅元年成立と見るのには疑問を呈し、出雲にまつわる神の系譜が中心となる「以上榛氏之神宅之印」より前の部分のみ希少性を評価した。また、表題名について当文献中に「粟鹿大神」の使用例があり、記紀に「大明神」の例が存在せず谷森本でも「大神」を採用している点から、『粟鹿大神元記』が本来の名称であると論じた[2]。 粟鹿大明神元記に記された系図脚注注釈出典
参考文献
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