ドン・ラフォンティーヌ
ドン・ラフォンティーヌ(Don LaFontaine、1940年8月26日[3][4] - 2008年9月1日[1])は、アメリカ合衆国の男性声優、ナレーター、アナウンサー、元音響技師兼編集技師。ハリウッドでもっとも著名な声優の1人であり、映画の予告編のナレーションを5000本以上担当し、テレビ・ラジオのCMは35万本以上担当した[4]。ドン・ラ・フォンティーヌ(Don La Fontaine)との表記も。 人物ミネソタ州ダルースで、ノーザン・パシフィック鉄道で働く転轍手の息子として生まれる[4][5]。ダルースセントラル高校を1958年に卒業後、アメリカ陸軍に入隊[5] [4]。バージニア州フォートマイヤーにて陸軍バンドの録音技師としての勤務[4][5]。除隊後は音響技師兼編集技師としてニューヨークのナショナル・レコーディングスタジオで活動[3]。1962年にラジオプロデューサーのフロイド・L・ピーターソンと知り合い、翌年から彼の会社でラジオCM製作の仕事を始める[5][4]。最初に手がけたCMは『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』[3]。1964年、『カサグランデのガンファイター』のラジオCMの制作した際に出演予定のナレーターがスタジオに現れなかった為、ラフォンティーヌがナレーションを務めた事でナレーターとしてのキャリアをスタートさせる[3][2]。 予告編製作会社カレイドスコープ・フィルムの製作責任者を務めた後[3][2]、1976年に独立して予告編製作会社「ドン・ラフォンティーヌ・アソシエイツ」を設立[5][4]。独立後、最初に手がけたのは『ゴッドファーザー PART II』の予告編[5]。1978年からはパラマウント映画の予告編部門の責任者となり、数多くの予告編の制作を担当[3][5]。1980年に副社長に昇進するが、1981年に退社しロサンゼルスに移住[5]。 ピーク時には1日に35本もの仕事をこなしていた為、お抱え運転手を雇い、駐車場を探す時間を節約していたほどであった[6]。技術の発展より、通信による録音が可能になってからは、自宅に録音スタジオを作り[3][7][6]、そこで1日に7本から10本程度の仕事をこなしていた[2]。映画俳優組合の記録上、最も忙しかった声優であったとされる[5]。 2008年8月22日に危篤状態となり[8]、同年9月1日にシーダーズ・サイナイ・メディカルセンターで死亡[3]。死因は呼吸不全[9]。墓はハリウッド・フォーエバー墓地にある[10]。 妻は女優・歌手のニタ・ウィテカー[2][6](再婚[1])。妻との子供が2人いる他、前妻との間にも子供が1人いる[1]。 思い入れのある仕事として映画『エレファント・マン』の予告編ナレーションを挙げている[4]。予告編ナレーションでは"In A World... Where"というフレーズを多用しており、他のナレーターもそのフレーズを模倣している[4]。 出演作品予告編ナレーション映画(予告)1964年 1965年 1968年 1970年 1974年 1978年 1980年 1984年 1986年 1987年 1988年 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年 1996年 1997年 1998年 1999年 2000年 2001年 2002年 2003年 2005年 2006年 2007年 2008年
オリジナルビデオ(予告)1997年 劇場アニメ(予告)1997年 1998年
1999年 2000年
2001年 2002年 2007年 OVA(予告)
ゲーム(予告)1998年 2001年 2007年 2008年 CMナレーションテレビ1988年 '1997年 1998年
2001年
2003年 2006年
2008年
ラジオ1964年 テレビアニメ1986年
1988年
2001年
2002年
2005年
2006年
2007年
2008年
2009年
劇場アニメ2002年
2005年
ゲーム1996年
2003年
テレビドラマ1977年
1990年
1993年
1995年
1997年
2001年
テレビ番組1977年
1988年
1991年
1997年
1998年
2004年
2005年
2008年
映画1981年
1982年
1988年
1990年
1993年
1996年
1997年
2006年 2007年
2009年
2013年
短編映画1997年
1999年
2006年
テレビ映画1994年
1995年
1996年
1997年
オリジナルビデオ2007年
その他
編集作品映画(編集)1968年
1969年
1979年
脚注
関連項目外部リンク |
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