デイヴ平尾
デイヴ平尾(デイヴひらお、1944年11月17日 - 2008年11月10日)は、日本の歌手、俳優。通称は、時坊(トキボウ)。 ※1945年(昭和20年)生まれと書かれることもあるが、プロデビューする際に所属事務所から1歳サバを読むよう指示されたため、しばらくの間そのように称していたことの名残だと思われる。ルイズルイス加部も同じく1歳サバを読んで1949年生まれと称していた(実際は1948年生まれ)[1]。 経歴・人物青春時代1944年11月17日、神奈川県横浜市出身。本名は平尾時宗。 実家は外国航路船員専門のクリーニング店だった。実姉の影響で音楽に親しむ。姉の影響で、日本劇場の日劇ウエスタンカーニバルを観覧したり、神奈川県立横浜緑ケ丘高等学校在学中にビートルズスタイルのバンドを結成。また日本大学へ進学してからは神奈川大学の友人たちともバンドを組んでいた。 一時期、アメリカ合衆国放浪の旅に出る。この時、ホームステイしていた家の子どもが、平尾がデビッド・ジャンセンに似ていると言って、「デイヴ」と呼んでいたことが、「デイヴ平尾」の由来である。また、この渡米中に偶然コンサート会場(ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズのコンサート会場だったと言われている)でエディ藩と遭遇し、『日本に帰ったら一緒にバンドをやろう』と約束する。この約束に基づいて、平尾はメンバーを集め、エディ藩、マモル・マヌー、ケネス伊東、ルイズルイス加部とバンドを結成する。この内、マモル・マヌーはアマチュアバンドで歌っていたがドラムの経験は殆ど無く、またルイズルイス加部はギターを弾くことはできたがベースには触ったこともない、というようにかなり強引な結成であった。当時のバンド名は『平尾時宗とグループ・アンド・アイ』で、なじみの横浜・本牧のクラブ「ゴールデン・カップ」のレギュラー・バンドとなる。これが後のザ・ゴールデン・カップスの原型である。 プロ入り以後ザ・ゴールデン・カップスのリーダーとして、東芝音楽工業から1967年にプロデビュー[2]。この時代の平尾については、ザ・ゴールデン・カップスの項を参照。1971年に解散後はソロ歌手、俳優としても活動。ソロ歌手としてシングルレコードやアルバムを発表。ソロデビューシングル「僕達の夜明け」のB面に収録された「一人」は日本テレビ系テレビドラマ『傷だらけの天使』の第25話と最終話で挿入歌として使われた。俳優としてテレビドラマ『悪魔のようなあいつ』(1975年:TBS)に出演したこともある。 1982年から2000年まで東京・六本木にライブハウス『ゴールデン・カップ』を開店し、オーナー兼専属歌手としてザ・ゴールデン・カップスのナンバーなどを歌っていた。 1985年には、TVKテレビ『カフェシティ・ヨコハマ』の司会を務めた。 2003年にドキュメンタリー映画『ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム』が製作されたことをきっかけとして、ザ・ゴールデン・カップスの活動を再開し、テレビの音楽番組出演やライブ活動を精力的にこなしていたが、2008年11月10日、食道がんの療養中に心不全で急逝した[3]。没年63歳。 2009年1月25日、横浜・新山下のレストランTycoonにてデイヴ平尾追悼パーティが行われ、カップスメンバー、沢田研二、岸部一徳らミュージシャン仲間、ナポレオン党の小金丸峰夫、女優の五十嵐めぐみ、ラジオDJの亀渕昭信、実の姉弟など関係者やファン650人が集まって6時間半にわたって彼を偲んだ[4]。なお、この日にはGS仲間であった元ザ・テンプターズの大口広司が他界している。 音楽作品シングル
アルバム
出演映像作品
脚註
外部サイト
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