チャド・クオルズ
チャド・マイケル・クオルズ(Chad Michael Qualls, 1978年8月17日 - )は、アメリカ合衆国・カリフォルニア州ロサンゼルス郡ロミータ出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 経歴プロ入り前1997年のMLBドラフト52巡目(全体1444位)でトロント・ブルージェイズから指名を受けたが、拒否。 プロ入りとアストロズ時代2000年のMLBドラフト2巡目(全体67位)でヒューストン・アストロズから指名を受け、8月16日に入団。 2004年7月22日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦でメジャーデビュー。6点リードの8回から登板し1回を投げたが、四球でランナーを出した後、シェイ・ヒレンブランドに2塁打を打たれ初失点を喫した。チームは10対3で勝利した。この年は25試合に登板して防御率3.55と、まずまずの成績を残した。ポストシーズンでは6試合に登板して防御率9.00と、全く貢献できなかった。 2005年、チーム最多の77試合(リーグ8位)に登板。チームは初のワールドシリーズに進出。クオルズはポストシーズンで9試合の登板で防御率2.08を記録し、セントルイス・カージナルスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは登板した4試合を無失点に抑えた。 2006年、自身初となる80試合以上、そして2年連続でチーム最多となる81試合(リーグ6位)に登板。 2007年、3年連続でチーム最多となる79試合(リーグ9位)に登板。 ダイヤモンドバックス時代2007年12月14日にホセ・バルベルデとのトレードで、クリス・バーク、フアン・グティエレスとともにアリゾナ・ダイヤモンドバックスへ移籍。 2008年はチーム最多の77試合(リーグ8位)に登板。9月半ばにはボブ・メルビン監督がブランドン・ライオンに代わりクローザーに指名[1]。9月15日から閉幕にかけて6試合連続セーブを記録し、シーズンを終えた。 それまで4年連続で77試合以上に登板していたクオルズだったが、2009年は、51試合の登板に終わった。これは、8月30日の古巣アストロズとの試合で、ピッチャーライナーを避けようとして体をひねり、その影響で膝の皿を脱臼した事による影響もあった[2]。しかし、登板試合数が減少したとは言え、防御率3.63・24セーブをマークした。また、52.0イニングで与えた与四球わずか7つ(与四球率1.21)という安定したコントロールも発揮した。 2010年もダイヤモンドバックスでクローザーを務め、43試合で12セーブを記録していたものの、前年に負傷した膝の手術を受けた影響から、明らかに球威がない状態が続き[3]、防御率は8.29という高い数値だった。そのため、6月中旬にクローザーの座を奪われた[3]。 レイズ時代2010年7月31日にトレードで、タンパベイ・レイズへ移籍。移籍後は27試合に登板したが、防御率は5.57という状態であった。2チームでの通算成績は70試合の登板で、3勝4敗・防御率7.32に終わった。自身5年ぶりのポストシーズンでは2試合に登板して防御率10.80と散々だった。オフの11月1日にFAとなった。 パドレス時代2011年1月19日にサンディエゴ・パドレスと150万ドルの1年契約(2012年の球団側選択オプション付き[4])を結んだ[5][6]。この年はチーム最多の77試合(リーグ8位)に登板し、6勝8敗・防御率3.51だった。オフの10月31日にパドレスが球団オプションを破棄したため、FAとなった[7]。 フィリーズ時代2012年1月31日にフィラデルフィア・フィリーズと115万ドル+出来高の1年契約を結んだ[8]。主にクローザーのジョナサン・パペルボンにつなぐセットアッパーを務め、35試合に登板。1勝1敗、防御率4.60だった。 ヤンキース時代2012年7月1日にトレードで、ニューヨーク・ヤンキースに移籍した[9]。ヤンキースでは8試合に登板して1勝0敗・防御率6.14だった。 パイレーツ時代2012年7月31日にケイシー・マギーとのトレードで、ピッツバーグ・パイレーツに移籍[10]。移籍後は17試合に登板したが、防御率6.59と結果を残せなかった。オフの10月29日にFAとなった。この年は3チームで60試合に登板して2勝1敗・防御率5.33だった。 マーリンズ時代2013年1月25日にマイアミ・マーリンズとマイナー契約を結び[11]、3月31日にマーリンズとメジャー契約を結んだ[12]。この年は66試合に登板して5勝2敗・防御率2.61だった。オフの10月31日にFAとなった。 アストロズ復帰2013年12月7日に古巣のアストロズと総額600万ドルの2年契約(2016年・350万ドルの球団側選択オプション付き)を結んだ[13][14]。 2014年、序盤はやや低調だったが、次第に調子を上げた[15]。この年は58試合に投げたが、連続60試合以上の継続は4年でストップした。1勝5敗19セーブ・防御率3.33という成績を残したほか、与えた四球は9個だけで自己ベストの与四球率0.9をマークした。 2015年は、再び60試合以上となる60試合ちょうどに登板したが、前年よりはやや調子を落として3勝5敗4セーブ・防御率4.38という成績だった。オフの11月3日にアストロズが350万ドルの球団オプションを破棄したため、FAとなった[16]。 ロッキーズ時代2015年12月8日にコロラド・ロッキーズと2年600万ドルの契約を結んだ[17]。 2017年6月30日にジョン・グレイの故障者リストからの復帰に伴ってDFAとなり[18]、7月5日に自由契約となった[19]。 詳細情報年度別投手成績
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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