チットゥール・V・ナガイアー
チットゥール・V・ナガイアー(Chittor V. Nagaiah、1904年3月28日 - 1973年12月30日)は、インドの俳優、映画監督、映画プロデューサー、作曲家、プレイバックシンガー。フィルムインディアの編集長バーブラーオ・パテルは、ナガイアーを「インドのポール・ムニ」と評している[1]。2014年には彼の功績を称え、チットゥールの劇場が「チットゥール・ナガイアー・カーラクシェトラーム」に改名され[2]、1965年にパドマ・シュリー勲章を授与された[3][4][5]。 生い立ち現在のアーンドラ・プラデーシュ州チットゥール県のバラモン家庭ラーマリンガ・サルマとヴェンカータ・ラクシュマンバの息子として生まれる。一家はクッパムを経てティルマラに移住した[6]。 ナガイアーはチットゥールで学位を取得した後、植民地政府の職員となったものの、退職してアーンドラ・パトリカ誌のジャーナリストに転職した。マハトマ・ガンディーとジャワハルラール・ネルーの影響を受けて1930年に独立運動に参加し、後に蓄音機の販売業に転職した[7]。彼はジャヤー・ラクシュミーと結婚したが、彼女は1年後に娘を産んだ後に死去している。後にギリジャーと再婚したが、彼女も8か月後に子供を流産した際に死去し、ジャヤーとの間に生まれた娘との死別した。彼女たちとの死別後、ナガイアーはスリ・ラマナ・アーシュラムに滞在した。 キャリアナガイアーはチットゥールの劇場協会ラーマ・ヴィラサ・サーバと密接な繋がりがあり、多くの舞台で俳優、監督を務めた。舞台ではテルグ人の詩人ポダナ、ヴェマナ、シャガラジャなどを演じた。舞台活動を通してB・N・レッディと親友になった。このころ、B・N・レッディはH・M・レッディと共にロヒニ・ピクチャーズを設立し、ナガイアーは1938年に同社が製作した『Gruhalakshmi』で主役を務め、映画デビューした。その後、彼はロヒニ・ピクチャーズやヴァウヒニ・スタジオが製作した『Vande Matharam』(1939年)、『Sumangali』(1940年)、『Devata』(1941年)、『Swarga Seema』(1945年)、『Ezhai Padum Padu』(1950年)などに出演した[8]。 ナガイアーは生涯で200本以上のテルグ語映画に出演した[9]。テルグ語映画の他に160本近いタミル語映画、カンナダ語映画、マラヤーラム語映画、ヒンディー語映画にも出演している[4]。彼はインドで最も優秀なメソッド俳優の一人であり、マチネー・アイドルとして人気を集め、実在の人物の特徴とマニエリスムの研究に努めていた[10]。1940年にはインド映画で初めて映画界を舞台にした『Viswa Mohini』で主演を務めた[11][12]。また俳優の他に映画製作者として『Bhakta Potana』(1942年)、『Tyagayya』(1946年)、『Chakradhari』(1948年)、『Naa Illu』(1953年)などパイオニア的な作品に携わった。1964年に監督、プロデューサー、脚本、主演を務めた『Ramadasu』では国家映画賞 テルグ語長編映画賞を受賞している[13]。 出典
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