スプリングフィールド (オレゴン州)
スプリングフィールド(英: Springfield)は、アメリカ合衆国オレゴン州レーン郡に位置する都市である[3]。ウィラメットバレー南部に位置し、ユージーン・スプリングフィールド都市圏に属している。この都市圏の中では州間高速道路5号線を隔てて西にあるユージーン市の次に人口の多い都市である。人口は6万1851人(2020年)。 開拓者ブリッグス家が1848年にこの地域に到着したのが始まりだった。1885年には市制を布いた。市名は現在の市域内にある草原すなわちプレーリーにある自然の泉に因んで名付けられた。市の経済は昔から資源依存型だったが、1990年代以降は現在市内最大の雇用主であるピースヘルスができて多様化された。市内の公共教育はスプリングフィールド教育学区が管轄している。市の出身者として最も有名な者は『カッコーの巣の上で』の作家ケン・キージーである。 歴史スプリングフィールドの町はエリアス・ブリッグスとメアリー・ブリッグスの一家が1848年に到着した時から開拓された。彼等はクラマス湖を過ぎてカスケード山脈を越え、ローグバレーから北のウィラメットバレーに入ってくるという、いわゆる「南ルート」を通ってこの地域に来た最初の隊に混じっていた[4]。エリアスはウィリアム・スティーブンスと共に、近くのウィラメット川で渡し船を運航した。 土地の登記記録に拠れば、スティーブンスが1847年10月にスプリングフィールドに到着して最初に権利を登録した開拓者となっている。スティーブンスは年長の息子3人と共に家の建設を初め、それが12月に完成すると、クリスマスの日に家族の残りが合流した。 スプリングフィールド近郷に到着したもう一人の開拓者はフェリックス・スコット・シニア大尉であり、1847年にマッケンジー川とウィラメット川の間に入植した。 1854年スプリングフィールド教育学区第19号が結成された。南7番通りとB通りの角近くに小さな校舎が建設された。この学校は1880年代まであった。ペンシルベニア州から来た若い女性のアグネス・スチュワートが最初の教師になった。彼女は1853年のロストワゴン・トレインによってスプリングフィールドに到着していた。 1871年、オレゴン・カリフォルニア鉄道の本線がスプリングフィールドを迂回してユージーンに通った。ユージーンの著名事業家の集団が、鉄道の資本家ベン・ホラデイに4万ドルを払い、ウィラメット川を渡る地点をスプリングフィールドではなくハリスバーグの近くにさせた。この時から両市のライバル関係が始まり今日に続いている。 スプリングフィールドの町は1885年に市制を布いた。町の鍛冶屋アルバート・ウォーカーが初代市長になった。 オレゴン市民同盟の運動が行われた後の1992年5月、スプリングフィールド市はその市民憲章に反LGBT条令を入れたことではアメリカ合衆国で最初の都市になった[5]。しかしその後成立した州法で反LGBT条令を執行してはならないものとされた[6]。 経済スプリングフィールド市の経済は長年製材業に依存してきており、最大の雇用主はウェアーハウザー社だった。ウェアーハウザー社は1949年にスプリングフィールドにその工場を開設して積極的に事業展開したが、老齢樹の材料が入手し難くなって事業縮小を強いられた。1990年代に製材とベニア板工場が閉鎖され、製紙工場は縮小された。現在の市はより多様化された経済を開発中であり、最大雇用主は近年に新しい病院であるセイクリッドハート・リバーベンド医療センター、マッケンジー・ウィラメット医療センターおよびピースヘルス研究所を開設したピースヘルスとなっている。 ケン・キージーの兄弟であるチャックとその妻スーが1960年にスプリングフィールド・クリーマリーを起業し、ナンシー・ハムレンのレシピを使って開発した基幹商品「ナンシーのヨーグルト」の売上げが寄与したこともあって今日まで事業を継続している。1970年代、この乳製品製造所は、ロックバンドの「グレイトフル・デッド」が10回連続の慈善コンサートを開催したことのお陰で破産の危機を回避した。 スプリングフィールド市はハシバミ(ヘーゼルナッツ)の果樹園に囲まれている。果樹園が住宅地に転換されるにつれてその生産量は減少してきた。近年まで市は夏祭りとして毎年8月初旬にハシバミ祭を後援してきており、音楽、食事および家族向け行事が行われていた。この行事は2007年に主たるスポンサーが降りたことで中断され、将来再開されるかは不確実になっている。ハシバミの収穫は10月に行われ、ウィラメットバレーだけで全米生産量の98%を生産している[7]。 医療市内にはマッケンジー・ウィラメット医療センターおよびピースヘルスのセイクリッドハート・リバーベンド医療センターという2つの総合病院がある。 市政府スプリングフィールド市は市政委員会・シティマネジャー方式を採用している。現市長はクリスティーヌ・ルンドバーグであり[1]、現シティマネジャーはジーノ・グリマルディである[8]。市政委員会は6つの選挙区から選ばれた委員で構成されている[9]。 公衆安全市の治安はスプリングフィールド警察署が担当している[10]。スプリングフィールド消防救急部は資産と人命を守り、市民の環境を保護している。 地理スプリングフィールドは北緯44度3分11秒 西経122度59分28秒 / 北緯44.05306度 西経122.99111度座標: 北緯44度3分11秒 西経122度59分28秒 / 北緯44.05306度 西経122.99111度に位置する[11]。アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、市域全面積は14.4平方マイル (37.3 km2)であり、全て陸地である。標高は454フィート (138.4 m) である。 マッケンジー川が市境北側を通っている。 地区市内に公式の地区指定は無いが、非公式の地区は以下の通りである。
人口動態
以下は2000年の国勢調査による人口統計データである。
芸術と文化図書館スプリングフィールド公共図書館は市役所の中にあり、スプリングフィールド市民の用に供している[15]。 催事場スプリングフィールド中心街メインストリートにあるリチャード・E・ウィルディッシュ・コミュニティシアターは、昔のマッケンジー劇場を全面的に改装したものであり、2006年12月に再開された。観客席数は284席であり、音楽演奏会やリサイタル、ダンス、劇、祝祭行事および小さなミュージカルのために設計されている。スプリングフィールド・ルネッサンス開発会社が改修計画を推進し310万ドルを掛けて完成させた。 教育スプリングフィールド教育学区には小学校15校、中学校5校、高校4校があり、州内でも最大級の教育学区になっている[16][17]。生徒数最大の高校はサーストン高校とスプリングフィールド高校である。パイオニア・パシフィック・カレッジがスプリングフィールド市ゲイトウェイ地区にキャンパスを構えている[18]。 著名な住人著作家のケン・キージーは幼い頃にスプリングフィールドに引っ越してきて、スプリングフィールド高校を卒業し、近くのオレゴン大学に進んだ。何年間かの放浪(その様子はトム・ウルフの『The Electric Kool-Aid Acid Test』(『クール・クール LSD交感テスト』)に詳しい)後、プレザントヒルの近くで農園を購入し、2001年に死ぬ時まで地元の著名人だった。 その他、市の出身者には以下の者がいる。
大衆文化の中でテレビアニメ『ザ・シンプソンズ』の作者マット・グレイニングがスプリングフィールド市に「オレゴン州スプリングフィールド、真のスプリングフィールドにハロー」と書かれた銘板を送った。このアニメのファンの多くは中で言及されるスプリングフィールドがオレゴン州のスプリングフィールドだと信じている。何故ならばグレイニングがオレゴン州(ポートランド)の出身だからである。 2007年、スプリングフィールド市は国内の16有るスプリングフィールド市の一つとして映画『ザ・シンプソンズ MOVIE』の封切り場所を選ぶ投票で第3位を獲得した[19]。 脚注
外部リンク |
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