ジョン・トラボルタジョン・トラボルタ(John Travolta, 1954年2月18日 - )は、アメリカ合衆国の俳優。ダンサー。歌手。ジョン・トラヴォルタとも表記される。世界的に大ヒットし若者文化に大きな影響を与えた『サタデー・ナイト・フィーバー』や『グリース』などの出演により、70年代後半に一世を風靡した。 生い立ちニュージャージー州イングルウッドにて、6人兄弟の末っ子として生まれる[1]。父親のサルヴァトーレ(1995年没)はイタリア系アメリカ人2世であり、フットボール選手を兼ねたタイヤ会社のセールスマンだった[2]、母親のヘレン・セシリア(1978年没)はアイルランド系アメリカ人の演技講師。兄や姉も俳優をしている。 キャリアニュージャージー州にあるドワイト・モロー高校に通っていたが、1971年に17歳で中退する。その後、ニューヨークに移ってブロードウェイのミュージカルに出演するようになる。そしてロサンゼルスに移り、1975年スタートのTVシリーズ『Welcome Back, Kotter』のレギュラー出演を経て、1976年の『キャリー』で本格的な映画デビューを果たす。 1977年に主演した青春映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のヒット、及びアカデミー主演男優賞へのノミネートにより、スターとなった。その後も、『グリース』(1978)、『アーバン・カウボーイ』(1980)のヒットでさらに人気を高めた。しかし、1983年の『ステイン・アライブ』(『サタデー・ナイト・フィーバー』の続編)が酷評され、『セカンド・チャンス』などが興行的に失敗するなど、役に恵まれない時期が続く。 しかし1994年、彼の大ファンだったクエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』のヴィンセント役で安定した幅の広い演技力を評価され、映画自体もアカデミー脚本賞、カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞(後述欄)、再び大スターの地位を安泰なものにした。 その後、『ゲット・ショーティ』(1995)でゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)を受賞する一方で、2000年には自ら製作者としても携わったSF映画『バトルフィールド・アース』が興行的に失敗、2001年の第21回ゴールデンラズベリー賞の主要部門をほぼ独占する、という不名誉な結果も受けている。 多数の賞にノミネートされた2002年作品『シカゴ』の弁護士役のオファーを断ったことを後悔していると語っている[3]。 2007年のミュージカル映画『ヘアスプレー』には、主人公の母親役として6時間がかりの特殊メイクによる女装姿で出演した。これは同作のオリジナル映画版と舞台版において同役をどちらも男性が演じたことに則ってのキャスティングである。さらに、それを全く苦にすることなしに歌とダンスも存分に披露して、大きな話題となった。 2010年以降は、おもにアクション映画やスリラー映画に主演し、2018年には犯罪映画『ギャング・イン・ニューヨーク』で、主人公のマフィアのボス・ジョン・ゴッティを演じた。同作は『バトルフィールド・アース』に匹敵するほどの酷評を浴び、映画批評集積サイトのRotten Tomatoesで批評家支持率0%を記録してしまった[4][5]。 歌手としても作品を発表しており、2012年には『グリース』や『セカンド・チャンス』で共演したオリビア・ニュートン=ジョンとのクリスマス・アルバム『ディス・クリスマス』を発表している。 私生活![]() 1991年に女優ケリー・プレストンと結婚した。後述するように航空機マニアであることから、長男をジェット(Jett)と名付けた。彼はバハマ滞在中の2009年1月2日に浴室で倒れ、同日死亡が確認された。没年齢16[6][7]した[8]。2020年7月12日、妻ケリーが乳癌のため死去[9]。 サイエントロジーの熱心な信者として知られ、映画『バトルフィールド・アース』はその創設者であるL・ロン・ハバードのSF小説「バトルフィールド・アース」を映画化した作品である。 2019年1月6日にインスタグラムで初めてスキンヘッド姿を披露した[10]。 航空機マニア子供の頃から航空会社の操縦士にあこがれていたという[11]大の航空機マニアで、1974年に初めて航空機の操縦資格を取得してから、2002年までの総飛行時間は5000時間を超え[11]、「最初の給料は全て飛行訓練に消えた」と語っている[11]。ボーイング747や707などの大型旅客機を含む9機種の操縦資格を取得しているほか、巨大な滑走路のついた自宅には自家用機として2機のジェット機と数機の軽飛行機がある[12]。 2003年に映画のプロモーションのためにオーストラリアを訪問した際には、保有するボーイング707を自ら操縦したが、空港でハンドリング業務を担当したカンタス航空の社員と意気投合したのがきっかけ[11]となり、カンタス航空の親善大使を務めることになった。 2004年にはカンタス航空とタイアップした「Spirit of Friendship」ツアーにより、所有するボーイング707をカンタス航空の往年の塗装に戻した[13]上、自らの操縦によりニュージーランド・シンガポール・香港・日本・イギリス・イタリア・フランス・ドイツを訪問した[13]。総飛行距離は64,700km[13]。なお、このボーイング707は、親善大使を務めているカンタス航空より1998年に購入したもので[11]、機首には「Jett Clipper Ella」と家族の名前を盛り込んだ愛称が記されている[11]。なお、この機体はドラマ撮影のために、パンアメリカン航空塗装になっていた時期があった。 2010年1月26日、ハイチ地震 (2010年)支援のため、妻と一緒に、自らが操縦するボーイング707に、6トンの救援物資や医療薬品と医療スタッフ、新宗教団体サイエントロジーのボランティアの牧師を乗せて、ハイチまで運んだ[14]。 フィルモグラフィ※役名の太字表記は主演。 映画劇場公開映画
テレビ映画
WEB配信映画
短編映画
テレビ
受賞とノミネート
日本語吹き替え主に担当しているのは、以下の三人である。
このほかにも、森田順平、藤真秀、江原正士、安原義人、池田秀一、小杉十郎太、原康義、磯部勉なども複数回、声を当てている。 脚注出典
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