ジャン=ルイ・バロー
ジャン=ルイ・バロー(Jean-Louis Barrault、1910年9月8日 - 1994年1月22日)はフランスの俳優、演出家、劇団主宰者。日本には、映画『天井桟敷の人々』のバチスト役、および、1960年、1977年、1979年の三度の来日公演などにより、知られた。女優マドレーヌ・ルノーを妻とした。姪に女優のマリー=クリスティーヌ・バローがいる。 生涯パリ西郊、イヴリーヌ県ル・ヴェジネの、薬剤師の家に生まれた。パリのシャプタル高等中学校(Lycée Chaptal)を卒業し、父の希望に背き、店員や中学校の自習監督係などを経て、1931年、シャルル・デュラン一座に入り、ベン・ジョンソン作、シュテファン・ツヴァイク および ジュール・ロマン脚色の『ヴォルポーヌ』の端役で、初舞台を踏んだ。 貧窮の中で、1935年から2年間、アトリエ座俳優学校のエティエンヌ・ドクルー(Étienne Decroux)に、パントマイムも学んだ。この学校にはマルセル・マルソーもいた。1936年、ウィリアム・フォークナーの『母をめぐって』をアトリエ座で演出し、名を上げ、デュランの友人ルイ・ジューヴェにも、認められた。 1932年から1936年までジャック・プレヴェール、ポール・グリモー、クロード・オータン=ララらが組織したアジプロ劇団『10月グループ』(Groupe Octobre)の、メンバーでもあった。[1] 1939年(29歳)、第二次世界大戦に召集されて還り、1940年、臨時支配人ジャック・コポーに招かれ、コメディ・フランセーズに入座した。1943年正座員となりクローデルの『繻子の靴』を演出・上演したことは、ナチスによる被占領期の快挙として、記録されている。この頃、同座の女優マドレーヌ・ルノーと結婚した。1943年から1944年にかけて、『天井桟敷の人々』で主人公を演じるための撮影にかかわった。 1946年、改革の政令を不服として、ルノーと共にコメディ・フランセーズを去って『ルノー=バロー劇団』 (la compagnie Renaud-Barrault)を組織し、マリニー劇場(Théâtre Marigny)と10年契約を結んだ。 契約が切れた1956年以降、一座は地方都市や外国へ、旅興行を続けた。 1959年、時の文化相アンドレ・マルローが、オデオン座をコメディ・フランセーズから分離し、フランス劇場(Théâtre de France)と名付け、『ルノー=バロー劇団』に預けた。バローはそこで自らの演劇活動を行うかたわら、『諸国民演劇祭』(Théâtre des nations)をもよおし、アメリカの『リヴィング・シアター』(The Living Theatre)を招くなど、世界の演劇に門を開いた。 1968年、五月革命の学生らに劇場の占拠を許したかどで、劇団はオデオン座を追われ、その暮から翌春まで、闘技小屋のエリゼ・モンマルトル(Élysée Montmartre)、1974年から1980年までオルセー駅内の仮設小屋などで興行したのち、1981年、時の文化相ジャン=フィリップ・ルカ(Jean-Philippe Lecat)の斡旋で、ロン・ポワン劇場(Théâtre du Rond-Point)に落着いた。 ルノー=バロー劇団は、1960年、1977年、1979年の3回、来日した。[2] 1994年1月、心臓発作により、パリに没した。同年9月に後を追ったマドレーヌ・ルノーと、パッシー墓地に眠っている。 50本近い映画に出演した。 舞台再演は記さない。 アトリエ座時代
マリニー劇場時代
オデオン座時代
仮住まい時代
ロン・ポワン劇場時代
主な映画
参考文献
日本語訳された著書
脚注関連項目外部リンク
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