ジャン=バティスト・ドルーエ (エルロン伯爵)
エルロン伯爵ジャン=バティスト・ドルーエ(Jean-Baptiste Drouet, Comte d'Erlon、1765年7月29日 - 1844年1月25日)、通称デルロン[1]は、ナポレオン戦争で活躍したフランスの将軍である。ワーテルローの戦いで第1軍団を率いて戦ったことで有名であり、晩年にフランス元帥となった。 生い立ちフランス革命戦争1782年、義勇兵としてフランス軍に入り、5年後に退役。1792年に再入隊した。急速に昇進し1794年から1796年までルフェーブル将軍の副官を務める。1799年には少将となり、マッセナ将軍のスイス作戦に参加。1800年のホーエンリンデンの戦いではモロー将軍の下で戦うが負傷する[2]。1803年、中将に昇進[1]。 第一帝政時代1805年-1806年の戦役では、アウステルリッツの戦いをベルナドット元帥の第1軍団で戦った後、イエナの戦いの勝利に貢献した[2]。続いてダンツィヒ攻囲戦ではルフェーブル元帥を支援したランヌ元帥の参謀長[3][4]として降伏条件を取りまとめた。1807年のフリートラントの戦いで重傷を負い、レジオンドヌール勲章グラントフィシエを授与される。そしてエルロン伯に叙せられた[2]。 1809年のドナウ戦役で一時、第7軍団を指揮するが、1810年からスペインへ派遣される[3]。半島戦争のほとんどで軍団長を務め、将軍としての名声を高めた。1813年7月のマヤ峠の戦いではヒル将軍率いるイギリス軍を破っている[2]。 1814年にナポレオンが退位するとブルボン家への忠誠を誓い、第16師団長となる。間もなくオルレアン派との関係を疑われ逮捕されるが脱走し、エルバ島から帰還したナポレオンと合流した[2]。 ワーテルロー6月16日のカトル・ブラの戦いとリニーの戦いで第1軍団は、相反する命令に従い両戦場の間を行き来し、いずれの戦闘にも参加できず仕舞いに終わった。しかしもし第1軍団がどちらかの戦場に到着していれば、戦役は違う結果になったかもしれなかった[5]。 18日のワーテルローの戦いでは、第1軍団全軍でラ・エイ・サントからパペロットにかけての連合軍中左翼を攻撃した。しかし明確な命令を出さなかったため[1]、ピクトンの部隊に阻まれた[6]。夕刻にラ・エイ・サントを陥落させた[7]が、側面を戦場に到着したプロイセン軍に攻撃され[8]敗北した。 ブルボン王家が復帰するとデルロンは銃殺対象となったことから、ミュンヘン、バイロイトへ亡命、そこで醸造業やカフェを経営した[3][1]。 その後1832年にナントの第12師団長、1834年にフランス領アルジェリア総督となる[2]。1835年にカミーユ・アルフォンス・トレーゼル将軍率いるフランス軍がマクタの戦いで敗北すると、デルロンはフランスに呼び戻され交代させられた[9]。1843年4月9日、フランス元帥となる[3]。翌年1月25日にパリで死去[2]。 エトワール凱旋門に名前を刻まれている。 脚注参考文献
Attribution:
外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia