ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー(James McDonald Gardiner、1857年5月22日 - 1925年11月25日)は、アメリカ人建築家、教育者、宣教師[1][2][注釈 1]。
米国聖公会から日本に派遣され、立教学校、立教大学校(現・立教大学)で校長、教員を務めた。東京築地にあった立教大学校の校舎群や、聖堂などを設計する。立教大学の創生期において、校長、教員のみならず、建築士としても活躍し、米国式カレッジの設立と運営に大きく貢献した。校長退任後は、本格的に建築家を専業とし、日本各地で設計を行う。京都の聖アグネス教会や京都聖ヨハネ教会(博物館明治村に移設)などの教会建築のほか、横浜に移築されている外交官の家など、邸宅の建築も多く手掛けた[4][3]。
生涯
- 父は同じジェームズ、母はマーガレット(旧姓マッカートニー・ゴードン)、共にスコットランド出身。
- この頃、ハッケンサック・アカデミーで大学への予備教育を受ける。
- この頃、米国聖公会内外伝道局の執事の選ばれ、海外伝道を志す[3]。
- 1880年(明治13年)
- 1881年 (明治14年)
- 1882年(明治15年)
- ガーディナーが設計した大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)の付属礼拝堂である聖テモテ教会(現・川口基督教会)の建築工事が進行。この際、工事管理に正式な建築教育を受けていないテオドシウス・ティング(米国聖公会宣教師・司祭)を入れて設計・建築技術を学ばせる[10]。
- 5月7日 - 大阪・英和学舎内の聖テモテ教会礼拝堂(教会堂)の落成を祝って、祈祷ならびに説教会を開始[11]。
- 5月16日 - 東京・芝の聖アンデレ教会でフローレンスと結婚[7][注釈 3][注釈 4]。(博物館明治村に、新婦が着用したウェディングドレスが現存。)
- 夫婦は築地居留地26番に居住。同邸宅の2部屋を立教女学校(現・立教女学院)の校舎として使用。
- 立教学校は、ガーディナーの有能な管理のもとで引き続き繁栄する[7]。
- 6月 - 立教女学校の全責任はガーディナー夫妻の手に委ねられる[7]。
- 12月 - 築地居留地37番の立教大学校の校舎が竣工。
- 1883年(明治16年)
- 1月 - 立教大学校設立。校長に就任する。立教大学校では英文学を教える[9]。
- 長女ヘルダ・ホートンが生まれるも2か月で早世。
- 1884年(明治17年)
- 3月 - 築地居留地26番に立教女学校の新校舎が竣工。
- 一時体調を崩して帰米。ハッケンサックの実家で静養。長男ローレンスが生まれる。
- 1885年(明治18年)- 日本へ戻る[6]。
- 1886年(明治19年)- 次女ハスノハナが生まれる。
- 1887年(明治20年)
- 1889年(明治22年)
- 1890年(明治23年)- 校名が立教学校に戻る。三女アーネスティンが生まれる。
- 1892年(明治25年)
- 6月 - 立教学校長を退任[8]。本格的に建築家としての人生を歩み始める。
- 家族とともに帰米。
- 1893年(明治26年)- 聖三一大聖堂(立教教会)の内部装飾を親友のジョサイア・コンドルが手掛ける[16][17]。
- 1894年(明治27年)
- 6月20日 - 明治東京地震で立教学校校舎などの初期作品が被害を受ける。以来、建物の耐震性を考慮した設計を行うようになり[6]、これまでの総煉瓦造ではなく、建物の下層部は煉瓦だが、上層部を軽量の木材を用いるなどの設計を行う[4]。また、築地の自邸の庭に地震計を置いて観測し、帝国大学の先生が訪れていたとガーディナーの娘が記憶している[3]。
- 同年、大学時代の旧友と再会するため、また、米国各地を旅行するため再び帰国する。旅行先では日本について講演した。また、旧友の協力により論文を提出、ハーバード大学で文学士の学位を取得し卒業する。帰国後、立教大学校英語・英文学教授の地位に再び就く[18]。
- 四女リリアンが生まれる。
- 築地居留地40番に自宅を建設する。
- 1896年(明治29年)- 東京演劇音楽協会設立に関与し、幹事に就任。(ジョサイア・コンドルも参加、第1回公演に出演。)
- その他、東京教師協会初代会長、日本アジア協会会員(顧問・会計)、東京文芸協会(東京文学音楽協会)文学委員会委員長、日本音楽協会、日本写真協会、日本YMCA事務局諮問委員、東京宣教師管区書記、東京デュプリケート(ホイスト)(=コンストラクトブリッジ)クラブ設立メンバー、東京野球クラブ、東京チェスクラブ、東京講演協会などにも参加。
- 1898年(明治31年)- 小村寿太郎、吉川重吉らとともに日本ハーバードクラブを設立[6]。副会長となる。
- 1901年(明治34年)- 一家で、アジア、中近東、ヨーロッパを経由して帰米。
- 1903年(明治36年)- ガーディナー建築事務所を開業[6]。ミッション以外の仕事も積極的に手掛けるようになる。
- 1904年(明治37年)- 麹町区五番町に移転。近くに津田梅子が創設した女子英学塾(のちの津田塾大学)があり、夫妻は講師を務め、後まで交流が続く。
- 1908年(明治41年)- 老衰したウィリアムズとともに帰米し、リッチモンドまで送る[5]。米国聖公会伝道局を退職。
- 1910年(明治43年)- 麹町区土手三番町の建設事務所を兼ねた自邸へ移転。建築活動に専念する。
- 1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災により築地の教会、学校の諸施設のほとんどが崩壊、焼失する。この日、ガーディナー一家は日光に滞在していて無事だった。
- 1925年(大正14年)
- 1926年(大正15年)
- 12月 - 立教大学諸聖徒礼拝堂でガーディナー記念礼拝式が開かれる。同日記念銘板除幕式、図書館で肖像画(石橋和訓画)除幕式[3][注釈 5]。
関係人物
ガーディナーの次女、ハスノハナは1916年(大正5年)に米国聖公会の宣教師シャーリー・ホール・ニコルス(Shirley Hall Nichols)と結婚。1925年(大正14年)にニコルスは日本聖公会京都教区の第2代主教であったヘンリー・セントジョージ・タッカーの後任として第3代主教に選出された。現在京都にあるウイリアムス神学館の建物は、ガーディナー建築事務所の上林敬吉が設計して1931年(昭和6年)に完成し、ニコルスの邸宅であったといわれている。
ガーデナー会
1908年(明治41年)には、立教学院校友会内の団体の一つとしてガーデナー会(旧・立教大学生徒会)が組織されており、立教大学の卒業生である平澤三郎(武州鉄道株式会社取締役、立教大学校友会顧問)が会計を務めた[20]。
主な設計作品
築地居留地
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立教大学校校舎
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主教館
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立教女学校校舎(26番)
-
東京・聖三一大聖堂(立教教会)
-
三一会館(左)と三一神学校・付属図書館(右)
-
立教中学校寄宿舎(左)と校舎 六角塔(右)
建造物名
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年月
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所在地
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状態
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備考
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立教大学校校舎
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1882年(明治15年)12月
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築地居留地37番
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現存せず
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[21]
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主教館
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1882年(明治15年)
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築地居留地38番
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現存せず
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立教女学校校舎
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1884年(明治17年)3月
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築地居留地26番
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現存せず
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[22]
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三一神学校寄宿舎
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1889年(明治22年)
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築地居留地53番
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現存せず
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東京・聖三一大聖堂(聖三一教会、立教教会とも)
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1889年(明治22年)12月
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築地居留地39番
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現存せず
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1893年、内部装飾(設計はジョサイア・コンドル)[23]
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三一神学校・附属図書館
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1892年(明治25年)
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築地居留地53番
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現存せず
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三一会館
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1892年(明治25年)
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築地居留地54番
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現存せず
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ガーディナー邸
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1894年(明治27年)
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築地居留地40番
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現存せず
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立教中学校寄宿舎
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1895年(明治28年)12月
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築地居留地59番、60番
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現存せず
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[1]
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立教中学校校舎(六角塔)
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1896年(明治29年)
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築地居留地57番、58番
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現存せず
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[24]
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各地の建造物
建造物名
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年月
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所在地
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状態
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備考
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聖テモテ教会(大阪・英和学舎付属礼拝堂)
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1882年(明治15年)
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大阪
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現存せず
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東京・築地の立教学校の校長を務めながら設計。工事管理にテオドシウス・ティング(米国聖公会宣教師・司祭)を入れて設計・建築技術を学ばせる[10]。
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青森聖アンデレ教会
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1897年(明治30年)
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青森
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現存せず
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聖路加教会(現・小浜聖ルカ教会)
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1897年(明治30年)
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福井
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国登録文化財
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1931年、増改築、設計はJ.V.W.バーガミニー
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京都聖三一教会(現・聖アグネス教会)
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1898年(明治31年)
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京都
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京都市指定文化財
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横浜クリケットパビリオン
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1898年(明治31年)
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神奈川
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現存せず
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日光変容貌教会
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1899年(明治32年)
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栃木
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現存せず
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水戸聖ペテロ教会(後・水戸聖ステパノ教会)
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1905年(明治38年)
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茨城
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現存せず
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福島聖ステパノ教会
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1905年(明治38年)
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福島
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現存
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設計は英国人宣教師ウィリアム・スマート。ガーディナーが設計指導[25][26]。
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青山学院新ガウチャー館
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1906年(明治39年)
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東京
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現存せず
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京都聖ヨハネ教会堂
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1907年(明治40年)
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京都(現在は愛知)
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重要文化財
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博物館明治村に移築保存
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青山学院大講堂(弘道館)
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1907年(明治40年)
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東京
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現存せず
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間島記念館は関東大震災で倒壊した大講堂(弘道館)の外観を基に1929年竣工
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遺愛女学校寄宿舎
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1907年(明治40年)
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北海道・函館
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現存せず
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竣工間近に焼失
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外交官の家(旧内田定槌邸)
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1908年(明治41年)
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東京(現在は神奈川)
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重要文化財
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横浜に移築保存
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遺愛女学校校舎(現遺愛学院本館)
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1908年(明治41年)
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北海道・函館
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重要文化財
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[27]1935年、講堂および渡り廊下増築、設計はW.M.ヴォーリズ
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遺愛女学校宣教師館(現遺愛学院「ホワイトハウス」)
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1908年(明治41年)
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北海道・函館
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重要文化財
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村井吉兵衛京都別邸(長楽館)
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1909年(明治42年)
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京都
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京都市指定文化財
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遺愛女学校雨天体操場
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1909年(明治42年)
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北海道・函館
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現存せず
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東京聖テモテ教会聖堂
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1909年(明治42年)
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東京・本郷
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現存せず
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[28]1945年戦災で焼失。1950年再建。森鴎外の小説「青年」に登場。 1932年国産第1号パイプオルガン設置[29]。
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ガーディナー邸
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1910年(明治43年)
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東京・土手三番町
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現存せず
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ガーディナー日光別邸(下赤門)
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1910年(明治43年)頃
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栃木
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現存せず
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某氏日光別邸(上赤門)(現・エマーソン邸)
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1910年(明治43年)頃
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栃木
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現存
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山形聖ペテロ教会
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1910年(明治43年)頃
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山形
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登録有形文化財
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設計は英国人宣教師ウィリアム・スマート。ガーディナーが設計指導[30][31]。
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吉川重吉男爵邸
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1911年(明治44年)
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東京
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現存せず
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村井吉兵衛東京本邸
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1911年(明治44年)
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東京
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現存せず
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イタリア大使館官舎
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1911年(明治44年)頃
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東京
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現存せず
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ドイツ大使館参事官官舎
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1911年(明治44年)頃
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東京
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現存せず
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大山公爵邸
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1911年(明治44年)頃
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東京
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現存せず
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立教大学池袋キャンパスマスタープラン
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1912年(明治45年)
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東京
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実現せず
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計画のみ
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小田良治札幌別邸
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1913年(大正2年)
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北海道
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現存せず
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露国大使館舞踏室
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1913年(大正2年)
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東京
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現存せず
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德川侯爵森ヶ崎別邸
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1913年(大正2年)
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東京
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現存せず
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エンゼル館
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1913年(大正2年)
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札幌
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現存せず
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ガーディナー建築事務所の荒木賢治が担当
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日光真光教会礼拝堂
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1914年(大正3年)
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栃木
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栃木県指定文化財
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渡辺子爵邸洋室内装
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1917年(大正6年)
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東京
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博物館明治村で解体材保管
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ポルトガル公使館
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1917年(大正6年)頃
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東京
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現存せず
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オランダ公使館参事官官舎
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1917年(大正6年)頃
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東京
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現存せず
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村井貞之助葉山別邸(嶺秋荘)
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1920年(大正9年)
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神奈川
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現存せず
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弘前昇天教会
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1921年(大正10年)
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青森
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青森県指定文化財
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娘婿で当時司祭であった宣教師シャーリー・H・ニコルスの下で改築。
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浅草聖ヨハネ教会二代礼拝堂
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1922年(大正11年)
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東京浅草区栄久町(台東区蔵前)
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現存せず
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設計主任は上林敬吉。関東大震災により灰燼に帰す。
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小田良治邸(のちのフィリピン大使館)[32]
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1924年(大正13年)
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東京
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現存せず
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天文台つきの洋館[32]。日本の個人住宅で完全空調設備が施工された第1号[33]。
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スペイン公使館(現・スペイン大使館公邸)
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1927年(昭和2年)
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東京
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現存
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ガーディナー建築事務所の上林敬吉が担当
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オランダ大使館(現・オランダ大使館公邸)
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1928年(昭和3年)
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東京
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現存
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ガーディナー建築事務所の上林敬吉が担当
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その他
脚注
注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク