コンスタンティノープル総主教庁
コンスタンティノープル総主教庁(コンスタンティノープルそうしゅきょうちょう、ギリシア語: Οικουμενικό Πατριαρχείο Κωνσταντινουπόλεως、英語: Ecumenical Patriarchate of Constantinople[注 2]、トルコ語: Rum Ortodoks Patrikhanesi)は、東方正教会で筆頭格を有する総主教庁・教会である。コンスタンチノープル総主教庁、コンスタンディヌーポリ全地総主教庁[4]ないし全地総主教庁とも表記される(#別名も参照)。敬称は、"His All-Holiness" ("HAH"と略される)。 初代総主教は十二使徒の一人であるアンデレとされている。この主張の元は10世紀ごろの伝説にさかのぼることが出来るが、歴史学的に確認出来る当地最初の主教(司教)は306年から314年まで在職したビュザンティオンのメトロファネスである[5]。現在の総主教はヴァルソロメオス1世(1991年 - )[注 3]である。 コンスタンティノープルは、現在のトルコ共和国最大の都市イスタンブールの旧名である[注 1]。総主教座はイスタンブール旧市街の金角湾に面したファナリ地区に建つ聖ゲオルギオス大聖堂に置かれている。 1カ国に1つの教会組織を具えることが原則である正教会には、カトリックのローマ教皇庁のような全体を統括する組織はない。コンスタンティノープル総主教庁は歴史的経緯から正教会の代表格と認識されている。他にギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本ハリストス正教会などがあるが、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳ではなく、同じ信仰を有している[9]。 →その教義や全正教会の性格については正教会の項を参照
概要![]() ヴァルソロメオス1世(2009年)。リヤサ(ラソ)を着用し、クロブークを被り、パナギアを胸にかけ、杖に花を合わせて持っている。 元来は、原始キリスト教の五大総主教座(ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリア)のひとつで、かつては東ローマ帝国の首都の教会として、また東方正教会の首長として、東ローマ皇帝に任命された総主教が東ローマ帝国領だった現在のトルコ・ギリシャからブルガリア・セルビア、さらにはロシアまでを管轄し、ローマ教皇とキリスト教会の首位の座を争うほどの地位を誇っていた。また、東ローマ皇帝が幼帝のときに総主教が摂政となった例も複数あり、聖俗に渡って影響力を持っていた。当時の総主教座はアギア・ソフィア大聖堂(現・アヤソフィア・ジャーミィ)に置かれていた。 東ローマ帝国では皇帝教皇主義がとられていた、皇帝が総主教を兼任していたという説が流布しているが、いずれも誤りである。建前上は総主教と皇帝は聖俗の役割分担が規定されており、また実質的にもコンスタンティノープル総主教が皇帝レオーン6世の再婚問題に際して、アギア・ソフィア大聖堂への立ち入りを禁じた事例[10]にもみられるように、常に皇帝が教会に対して絶対的な権力を行使できたわけではない。また、コンスタンティノープル総主教を東ローマ帝国皇帝が兼任したこともなかった。 →詳細は「皇帝教皇主義」および「ビザンティン・ハーモニー」を参照
オスマン帝国統治の時代は、東方正教会に属するギリシャ人、セルビア人、ルーマニア人、ブルガリア人、ヴラフ人(アルーマニア人)、正教徒アルバニア人、正教徒アラブ人を管轄する行政区分(ミッレト)の長となり、総主教の下の大主教や主教が、正教徒の行政・司法・教育を担当し、宗教税を徴収した。 現代では、各国の正教会が独立したために、主にトルコ国内のギリシャ系住民と、クレタ島、アトス山の各修道院および海外にいるギリシャ人正教徒を管轄するのみとなっているが、コンスタンティノープル総主教は「全地総主教(エキュメニカル総主教、世界総主教)」[注 4]という称号を持ち[注 5]、正教会の各教会の中でも第1位の格式を持っている。ただし各国の正教会は対等であり、コンスタンティノープル教会およびコンスタンティノープル総主教が筆頭とされるのは、あくまでも席次の上でのことである。 他団体との関係日本ハリストス正教会との交流コンスタンティノープル総主教庁は、日本ハリストス正教会の自治教会としての地位を承認していないが教会法上の合法性は認めており、一定の交流が行われている。日本ハリストス正教会をたびたび訪問する香港のニキタス府主教は、コンスタンティノープル総主教庁に所属している。
ウクライナ正教会(OCU)独立を巡る情勢ウクライナ正教会 (2018年設立)の独立を承認したコンスタンティノープル総主教庁に対して、ロシア正教会モスクワ総主教庁は猛反発し、全面的な断交を宣言した。この問題は、世界中の正教会を巻き込んだ深刻な対立に発展しつつある。 →詳細は「モスクワとコンスタンティノープルの断交」を参照
管轄区![]() 現在のコンスタンティノープル総主教庁は5つの大主教区および70余りの府主教区に分割される[14][15]。 大主教区
主な府主教区
カトリック教会における「コンスタンティノープル総大司教」1204年に第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領してラテン帝国を建国した際、カトリック教会は亡命した正教会のコンスタンティノープル総主教の代わりにカトリックの総大司教座を置いた。その後、1261年に東ローマ亡命政権のニカイア帝国がコンスタンティノープルを奪回して正教会の総主教座が復活し、カトリックの総大司教は追われた。しかし「コンスタンティノープル総大司教」の職名だけは残り、1964年まで名目上ながら存続していた。 著名な過去のコンスタンティノープル総主教カッコ内は日本ハリストス正教会での呼称。
総主教庁の在所の変遷
コンスタンティノープルの陥落でハギア・ソフィアがオスマン帝国に接収されたため、移転を余儀なくされた。その後、16世紀末に現在地に落ち着くまでの間、何度か移転している。
別名所在する都市名の転写・表記ゆれおよびエキュメニカル総主教の称号を付して表現するか否かにより複数の表記がある。「Category:コンスタンディヌーポリ総主教」の各種表記も参照。 在所都市名の転写・カナ表記→「コンスタンティノープル」も参照
当総主教庁の都市名には様々な表記がある。コンスタンティノープルは非常に長い歴史を持つ都市である上に、様々な民族・言語が関わる都市である。そのため、様々な呼び方・読み方がこの都市に対してなされている。以下に、それぞれの表記について解説する。
紋章![]() 東ローマ帝国の「双頭の鷲」を受け継ぐ紋章をコンスタンティノープル全地総主教庁とギリシャ正教会でよく用いられている。 分類
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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