カリント工場の煙突の上に
『カリント工場の煙突の上に』(カリントこうばのえんとつのうえに)は、日本のシンガーソングライターである玉置浩二の3枚目のオリジナル・アルバム。 1993年9月22日にSony Recordsからリリースされた。Kitty Recordsからの移籍第一弾としてリリースされ、前作『あこがれ』(1993年)からおよそ半年ぶりとなるオリジナル・アルバムである。詞に関しては前作にて作詞を担当した須藤晃による作品が多く収録されている。前作までは作詞は須藤や松井五郎等の作詞家に委ねる事が多かったが、本作では玉置自身が作詞を行った楽曲も多く収録されており、以後は共同作も含めて玉置作詞による楽曲が増えていった。 レコーディングは日本国内で行われ、それまでの作風とは異なりギター1本で演奏し歌った楽曲を中心に収録され、レコーディングには玉置の両親や兄が参加している。前作までプロデューサーとして安全地帯や玉置の作品に携わっていた金子章平は本作ではディレクターとして参加しており、また須藤もディレクターとして参加している。音楽性としては玉置自身の幼少時代を振り返った曲や療養中の出来事などを記した曲などを中心に、アコースティックな音使いがメインとなっている。 先行シングルとしてリリースされ、三菱地所のコマーシャルソングとして使用された「元気な町」(1993年)を収録、本作はオリコンチャートでは最高位17位となった。 背景前作『あこがれ』(1993年)をリリースした玉置は、安全地帯でのデビュー以来11年間在籍していたキティレコードを離脱し、Sony Recordsへと移籍する事となった[3]。この時期の玉置は自身による作詞に意欲を示していたが、『あこがれ』に収録されている自身の作詞は「大切な時間」の1曲のみであった[4]。 またこの時期に玉置は、安全地帯の活動が大規模となっていく中、自身の意見をストレートにバンドに反映するのが困難となった事や、事務所を独立させた事により周囲との意思疎通が上手くいかなかった事、時代の流れにより打ち込みが主流となっていたがそれに強い抵抗感があった事などが重なり、自身の音楽活動に強い疑念を抱いていた[5]。このため、玉置は自身が理想とする音楽を追及しようと安全地帯5人だけでの演奏に拘ったり、チャリティー・コンサートばかりに執着するようになり、次第にバンドのメンバーとの溝が深まっていった[6]。その後玉置は人間不信に陥り、家に帰らなくなり、また人との会話を拒絶し始めたため、周囲からの勧めにより精神病院に入院する事態となった[6]。 病院では薬を飲まされベッドで寝るだけの生活を強いられ、これに疑問を抱いた玉置は3日で病院を脱走し、北海道の実家に帰り療養する事となった[7]。この時期に母親から「音楽やってそんなに悩むんだったら音楽やめて、いっしょに農家やろう。なんとしてでも飯なんて食っていけるよ」と言われ、束縛から解放された感覚を覚えた玉置は号泣し、その後一日中空を見上げるような生活を半年ほど過ごしたという[8]。この時の精神病院への入院の経験を反映したのが「 録音、制作本作は玉置自身がプロデュースを行い、ディレクターとして須藤晃と金子章平が参加している。 須藤はこれ以前に浜田省吾、村下孝蔵、尾崎豊などのシンガーソングライターの作品を数多く手がけていた[10]。須藤はこの頃の玉置に関して、「自分とは接点がない存在だと感じていた。彼らの移籍についても、まったく興味はなかった」と述べている[10]。この両者を結びつけたのは前作『あこがれ』をプロデュースした金子と、スーパーバイザーを担当した星勝の二人であった[10]。須藤は前年に死去した尾崎に対しての喪失感を覚えており、精神的に不安定な時期ではあったが「呑気ではいられない時期だからこそ、ものを作るにはとてもいい時期だった」と述べている[11]。 本作の製作に至る経緯はそれまでの作品とは全く異なり、レコード会社の担当者からの要請ではなく、玉置自身が試行錯誤を繰り返しながら単独で曲を製作し始めたところからスタートした[3]。玉置が個人で実験的に叩いた事のないドラムを叩いたり、チューニングをしていないギターで演奏する事などを試みていた[12]。安全地帯でのレコーディングがデジタルなものになっていた反動から、本作ではギター1本で弾いて歌ったものに後からドラムを加えるなど、安全地帯の時とは正反対な方法で進められた[12]。リリースのあてもないまま勝手にレコーディングされていたこの作品に対し、玉置は「勝手に実験していただけ。それがアルバムになっちゃった。よく出せたなと思っているくらいで、"奇跡的なアルバム"と呼んでおります」と述べている[12]。 この後キティ・レコードからソニー・レコードへと移籍した玉置は、須藤と共に楽曲制作を開始したが、当時の玉置は作詞をほとんど行わなかったため、詞が付けられていない大量の曲が収められたデモテープが須藤に委ねられる事となり、須藤は「完成させるのは大変でした」と述べている[13]。曲の製作の順序としては、最初に玉置が曲のイメージを須藤に伝え、それを受けた須藤が詞のおおまかなイメージを玉置に提供し、メロディーに乗りやすい言葉に変更し最終的に須藤が作詞するという流れとなっていた[14]。そのようにして製作された膨大な曲群の中から曲を選別し、1枚にまとめたものをアルバムとしてリリースする事となった[15]。 本作には玉置の両親がコーラスで参加している他、デビュー以前に安全地帯の一員として活動した事もある兄の一芳がドラムスで参加している[16]。 音楽性と歌詞表題曲となる「カリント 須藤が本作で初めて作詞した曲が「ダンボールと 音楽情報サイト『CDジャーナル』では、「幼い頃の想い出が、歌の形をとって大切に収められていて、遊び疲れて家路に向かいながら友だちと眺めた真っ赤な夕焼けが想いだされてくる[22]」、「あのエモーショナルなヴォーカルとアコギの響きで、ひたすらにノスタルジックな歌を連発[23]」と表記されている。 リリース、プロモーション、アートワーク本作は1993年9月22日にSony RecordsよりCD、MDの2形態でリリースされた。先行シングルとしてリリースされた「元気な町」は三菱地所のコマーシャルソングとして使用された[24]。本作のジャケットに使用された絵画は、玉置が小学生時代にクレヨンで描いた母親の肖像画になっている[16]。また、ジャケット裏の「おかあさんありがとう たまきこうじ」という文字も玉置が小学生時代に書いたものである[16]。 初回盤のパッケージはダンボール製になっており、収録曲にある「ダンボールと蜜柑箱」や歌詞カードのクレジットにスペシャル・サンクスとして記載された「ザ・ミスター・ダンボール」などからこのパッケージでのリリースとなった[20]。ちなみに、「ザ・ミスター・ダンボール」とは須藤の事である[20]。須藤が初めて玉置の実家を訪ねた際は、「歓迎ミスター・ダンボール」と書かれた旗を持って玉置は兄と共に空港で出迎えたという[25]。 2018年8月15日にはブルースペックCD2、紙ジャケット仕様にて再リリースされた[23]。 批評
音楽情報サイト『CDジャーナル』では、ミュージシャンにとって生涯に1枚は制作する事が夢となる作品と推測した他[22]、大人だからこそ理解できる世界観であると主張し、薬師丸ひろ子とのデュエット曲が収録されている事に触れた上で「今だからこそ聴かれるべきしみじみ系名作[23]」、「故郷や家族を想う気持ちが込められた、人間味があふれる作品[23]」と称賛した。 チャート成績本作はオリコンアルバムチャートにおいて最高位17位の登場週数5回で、売り上げ枚数は4.9万枚となった[1]。この結果に関して須藤は「結果としてそこそこ売れましたけど、会社では『なに作ってんだよ、お前』って怒られました。『ここまで精神的なものを作ってだいじょうぶか、玉置浩二は』って言われましたけど、僕は、ものすごくいいものができたと思っています」と述べている[26]。また、この作品からの影響で須藤は後に立ち上げた自身の会社を「カリント・ファクトリー」と名付けている[20]。 本作の売り上げ枚数は玉置のアルバム売上ランキングにおいて第7位となった[27]。2023年に実施されたねとらぼ調査隊による玉置のオリジナルアルバム人気ランキングでは第4位となった[28]。 収録曲
スタッフ・クレジット参加ミュージシャン
スタッフ
リリース履歴
脚注
参考文献
外部リンク |