オリビエ・ジャンドビアン
オリヴィエ・ジャンドビアン(Olivier Gendebien 、1924年1月12日 - 1998年10月2日)は、ベルギーブリュッセル出身のレーシングドライバー[1]。「ゲンデビエン」と表記されている場合もある[2]。 スポーツカー耐久レースの名手として知られ、ル・マン24時間レース総合優勝4回など輝かしい成績を収めた。 経歴曽祖父(母方の祖母の父親)はベルギーの大手化学企業ソルベイの創業者エルネスト・ソルベイ[3]。ブリュッセルの裕福な家庭で育ち、貴族的な物腰を備え、陸上・馬術・スキー・テニスなど優れたスポーツマンでもあった[4]。大学生の頃に第二次世界大戦が始まると、ドイツ占領軍に抵抗するレジスタンスの一員として活動した[1]。その後イギリスへ脱出し、イギリス軍特殊空挺部隊 (SAS) のベルギー人パラシュート部隊に所属した[3]。 終戦後の1948年にアフリカのベルギー領コンゴへ渡り、農業技師として土地開拓事業に関わった[3]。そこで荒れた未舗装路の運転技術を認められ、ラリードライバーのシャルル・フレキン (Charles Fraikin) に誘われ、ヨーロッパへ戻るとモータスポーツ活動を始めた[1]。 1952年、フレキンのコ・ドライバーとしてジャガー・XK120に乗り、リエージュ-ローマ-リエージュ・ラリーに参加。1953年よりミッレミリアやスパ24時間、ニュルブルクリンク1000kmなどのスポーツカーレースにも参戦し、スパ・フランコルシャンのカップ戦でフェラーリ・166MMをドライブして初優勝した。 1955年、ル・マン24時間に初出場し総合5位。ドロミテ杯ではメルセデス・ベンツ 300SLを駆り、フェラーリのワークスマシンを破って優勝。これがきっかけでフェラーリに抜擢され、RAC ツーリスト・トロフィーの遠征メンバーに加わったが、予選中のクラッシュで負傷し欠場した。 1966年はフェラーリのレギュラードライバーに定着し、F1デビュー戦のアルゼンチンGPで5位入賞。その後はおもにスポーツカーレースの戦力として重用され、世界選手権シリーズを戦うワークスチーム(スクーデリア・フェラーリ)やベルギーのフェラーリ系ディーラーチーム(エキュリー・フランコルシャンやエキュリー・ナショナル・ベルジュ)で数多くのレースに出走した。 1957年はメジャーレースのランス12時間 (12 Hours of Reims) とツール・ド・フランス (Tour de France) でフェラーリ・250をドライブして優勝。1958年はフェラーリ・250TRをドライブし、ビッグイベントのタルガ・フローリオとルマン24時間を初制覇。ル・マンでコンビを組んだフィル・ヒルとは”車を丁寧に扱う”という耐久レース向きなセンスが共通しており、名コンビとして定着する。1959年はセブリング12時間で初優勝。 1960年はフェラーリからポルシェへ移籍し、セブリング12時間を連覇。ル・マン24時間はフェラーリに復帰し、2度目の優勝を飾る。また、ヨーマン・クレジット・レーシング(BRP)のクーパー・クライマックスでF1に参戦し、地元ベルギーGPで3位初表彰台、続くフランスGPで2位と連続表彰台を獲得した(シリーズランキング6位)。 1961年はセブリング12時間(3連覇)、タルガ・フローリオ(2勝目)、ル・マン24時間(3勝目)という好成績を記す。F1はベルギーGPにスポット参戦し、フェラーリの1-4位独占(ヒル-フォン・トリップス-ギンサー-ジャンドビアン)に名を連ねた。 1962年はタルガ・フローリオ(3勝目)とニュルブルクリンク1000kmで優勝。そして、ル・マン24時間3連覇という偉業を残し38歳で引退した。ル・マン24時間通算4勝(ヒルとのコンビでは3勝)という記録は、1981年に同郷の後輩ジャッキー・イクスに破られるまで個人最多勝記録として残った。 1998年、ベルギー国王アルベール2世からベルギー王冠勲章 (Order of the Crown) を贈られた[4]。同年10月2日、フランス南部タラスコンの自宅で死去。74歳没。 主な成績スポーツカーレース
ル・マン24時間
F1
出典
参考文献
外部リンク
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