オスカル・ロティ
オスカル・ロティ (仏: Oscar Roty、1846年6月12日 - 1911年3月23日)は、フランスの彫刻家。 数多くのメダルやプラーク、建築物の装飾を手がけ、特にフランスの通貨や切手における『スムーズ』のデザインで良く知られている。 概要ルイ・オスカル・ロティは謙虚なパリの教師[画 1]の息子として、7月王政下の1846年にベルヴィルで生まれた[1] · [2]。ロティは国立装飾美術学校(後の国立高等装飾美術学校)のオラース・ルコック・ド・ボワボードランと、パリ国立高等美術学校のユベール・ポンスカルメに師事した。彼は石片とメダルの彫刻作品でローマ賞に応募し、1869年に初めて人々の耳目をそばだてさせ[3]、1872年には2位を受賞し[4]、1875年にはグランプリを獲得した[5]。パリ万国博覧会でも1889年、1900年と2度のグランプリに輝いている[6]。オスカル・ロティは彼のデザインによるコイン『スムーズ』で最も良く知られている(後述)。これは1887年のフランス政府のメダル・プロジェクトで製作に着手されたが中絶し、1896年にフランス経済財務省からの依頼を受けて完成に至った。最初のコインは1897年に流通を開始し、1903年には同じデザインによる切手が発行された。ロティは1888年にフランス芸術アカデミーの会員に選出され、1897年には代表者に就任した。彼は1885年12月29日にレジオンドヌール勲章の騎士に任命され、1889年10月29日付けで将校に昇進、1890年12月4日に司令官となった[1]。1905年にはサロン・ド・パリにて彫刻部門における初の受賞を果たした[6]。ロティは1911年3月23日にパリで死去し[1] · [2]、モンパルナス墓地の1区に埋葬された[7]。
人物ロティは当初画家を志したが、画材購入のために貰った10フラン金貨を失い、彫刻家になることを決意した。高等美術学校に入学してからも、プロへの道は険しいものだった[8]。1875年にローマ賞を受賞し、1878年に錬鉄工 ピエール・フランソワ・マリー・ブーランジェの娘、マリー・ブーランジェと結婚し[5] · [画 6]、ノートルダム大聖堂の扉をウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクの計画をもとにデザインしている。このように大きな仕事はあったものの、ロティには裕福な顧客がおらず、可能な限りドローイングの教師をしたが、多くは義父の財政的援助に頼っていた[画 7]。しかし、その誠実さと明晰さ、大人らしからぬ礼儀正しさに加えて、ローマとパリの重要な人物を支援するなどしたことから徐々に同情と友情を集め、ついに成功の扉を開くことができた[8]。ロティはパリ市庁舎の彫刻委員を務め、自分の作品に O. Roty と署名し[5]、さまざまな展覧会に作品を出展して徐々にその名前が知られるようになった。1888年には、42歳でフランス芸術アカデミーの最年少会員となった。ロティの有力なパトロンにはアンジェロ・マリアーニがおり、家族ぐるみの交流を結び[画 8]、彼が発明したマリアーニ・ワインの宣伝活動を支援し[画 9]、彼の人脈によって多数の著名人の顧客を得ることができた。ロティはヴィクトル・ユーゴーやルイ・パスツールなどの肖像メダルも製作した[画 10]。
ロティの芸術は、その流動的かつ繊細な刻線から、アール・ヌーヴォーとはかけ離れたものとされており、いくつかの作品には、当時まだ流行していた古代美術からの伝統的な象徴性が見られる。彼は芸術作品としてのメダルの重要性に着目し、ルネサンス期のプラーク形式を採用した優雅なデザインの作品を製作した。その数は数百点にのぼる。これらのプラークの構図には、しばしばルネサンス絵画に見られる窓が登場し[画 12]、たとえば作業台に寄りかかって新聞を読む男性像、畑や工場をはるかに望む戸外で編み物や読書をする女性像などは[画 13]、妻との日常生活から想像されたことがらを示すものである。また、ロティは銀食器メーカーのクリストフル社(CHRISTOFLE)の製品のバスレリーフ(浅浮き彫り[画 14])を手がけている。彼は貴重品や宝石[画 15]、銀器やカトラリーなどの装飾を幅広く手がけ、「ロティ様式」はその後もしばらく続いた[9]。 スムーズ『スムーズ』の製作は1887年に始められた[10] · [11]。これは一旦中断したが、1896年にフランス経済財務省の依頼により再度着手し、自然主義的な1887年版よりもアール・ヌーヴォー風の単純化された構図で造り変えられた。これは当時のフランスの造幣技術、とくにタイピングの技術的制約に配慮した結果である[11]。『スムーズ』はモデルを起用して製作されたが、モデルとなった人物は特定されていない。現在オスカル・ロティ博物館とポステ美術館にモデルの写真が収蔵されているが、この徒歩のポーズを取った女性をシャルロット・ラゴットとする意見がある[12] · [13] · [画 16]。彼女はロティが定期的に起用していた5名のプロのモデルのひとりであった[9]。当時30歳近かった彼女は[13]、1890年の結婚を機にモデルの仕事を辞めており[14]、オスカル・ロティ博物館のキュレーターであるピエール・マルク・シャントローの説によると[9]、ロティは『スムーズ』の製作に際して、通常のモデルではなくモンパルナスに住んでいた若いイタリア移民のロザリーナ(ロザリンダ)・ペシェから創造意欲を刺激された[15] · [16] · [17] · [18]。彼女はロティが思い描くイメージと合致しており[11]、シャルロットはその後起用されていない[14]。しかし、ガッリナーロ出身[19]のロザリーナは1885年3月8日生まれで、製作時はまだ11歳である[15] · [16] · [17] · [18]。このことから、ロティは製作に際して数名のモデルを起用し、顔の部分のみにロザリ-ナ・ペシェを採用したと推察している[14]。
1897年版の『スムーズ』は、1960年の新フラン切り替えの際に再び採用された。フランスのユーロ硬貨はデザイナーのローラン・ジョリオによって近代的にデザインされた『スムーズ』が使用され、2008年にはホアキン・ヒメネスによる新デザインのスムーズ硬貨(la Semeuse cinétique)が発行された。一方、1903年に登場した『スムーズ切手』は、ロティが製作したレリーフ彫刻をもとに、彫刻家のルイ=ウジェーヌ・ムーションがデザインしたものである。ロティは原画の保管に消極的で、作品のロウ型も、その脆さゆえに多くが失われたが、1887年に製作された『スムーズ』のスレート原版から取られたロウ型は現在オルセー美術館に収蔵されており[10]、ここでは約150点以上の彼の作品を観ることができる[20]。オスカル・ロティの息子であるジョルジュ・ロティがロワレ県のジャルゴーに設立したオスカル・ロティ博物館[15] · [21]には、彼がパリ造幣局発行銀貨のために1896年に製作したものを含むロウ型や彫刻作品、デッサンが収蔵されている。 パブリック・コレクション![]()
顕彰
脚注出典
参照![]()
参考文献![]()
外部リンク
座標: 北緯47度52分0.39秒 東経2度7分20.55秒 / 北緯47.8667750度 東経2.1223750度 |
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