イマーム派 (イマームは, アラビア語 : امامية , EI方式カナ転写 : Imāmiyya )は、十二イマーム派 の別名[ 1] [ 注釈 1] 、あるいは、8世紀前半頃のシーア派 の一分派で、アリー 以降のイマーマ (カリフ位)の継承がファーティマ の子孫によりなされるとした一派のことである[ 1] 。本項では後者について詳述する。
イマーム派はジャアファル・サーディク の信奉者を母体にしており、ジャアファルの死没(765年)後は、イマーマが長男のイスマーイールに受け継がれたと考える者たちのグループと、その弟のムーサー に受け継がれると考える者たちのグループなどに分かれた[ 2] (#イマーム派の分派 )。イスマーイール派 は前者の流れに属し、十二イマーム派 は後者の流れに属す[ 2] 。イマーマ が血縁によって世代を超えて受け継がれることや、イマーム の不可謬性 といった独特のイマーム論がイマーム派により論じ始められた[ 2] (#イマーム論 )。
ラーフィダ
ラーフィダ(al-Rāfiḍa ; 文字通りには「拒絶する者」「否認者」を意味する)はシーア派全体を指すことも多いが、狭義には、イマーム派の源流となったグループ proto-Imāmiyya である[ 3] 。クーファにおけるザイド・ブン・アリー の蜂起(740年)に際し、一部の、最終的にザイドを拒絶したクーファのシーア派は、マディーナに住むジャアファル・サーディクに支持を鞍替えした[ 4] 。「ラーフィダ」はザイド派によるイマーム派の他称であり、元来は侮蔑的な意味合いを持たされていた[ 注釈 2] [ 3] 。
イマーム派はしかし、この他称をすぐにポジティブな意味への読み替えを行った[ 3] 。スライマーン・ブン・ミヒラーン・アァマシュ (英語版 ) が伝えるジャアファル・サーディクのハディースによると、ファラオを拒絶してモーセを選んだエジプトの民が神により「ラーフィダ」と呼ばれたことを、ジャアファルは指摘したという[ 3] 。すなわち侮蔑的な呼名「ラーフィダ」は、悪を拒絶する者たちと読み替えられた[ 3] 。
イマーム論
ラーフィダ思想はクーファに立ち現れ、8世紀(ヒジュラ暦2世紀)の終わりまでにはゴム にも飛び火した[ 3] 。
イマーム派の分派
12世紀の分派学者シャフラスターニー によると、イマーム派の共同体は後年、さらに次の6派に分派したという[ 5] 。
バーキリーヤとジャアファリーヤ
ムハンマド・バーキルとジャアファル・サーディクが不死であり、単に姿を隠しているにすぎないと信じたグループ[ 5] 。
ナーウースィーヤ
ジャアファル・サーディクがまだ生きており、後日、マフディー として現れると信じたグループ[ 5] [ 6] 。
アフタヒーヤ
ジャアファル・サーディクの死没時に最も年長の男子アブドゥッラー・アフタフ (英語版 ) を7番目のイマームとして支持したグループ[ 5] [ 6] 。アフタフはムルジア派 に傾倒したとされる。
シュマイティーヤ
ジャアファル・サーディクの四男ムハンマド・ディーバージにイマーマが受け継がれたとするヤヒヤー・イブン・アビー・シュマイトの説を支持したグループ[ 5] [ 6] 。
ムーサーウィーヤとムファッダリーヤ
ジャアファル・サーディクが亡くなったあとに、ムーサー・カーゼムにイマーマが渡ったと主張した者たち[ 5] 。
イスマーイーリーヤ
ジャアファル・サーディクが亡くなったあとに、イスマーイール (英語版 ) にイマーマが渡ったと主張した者たち[ 5] [ 6] 。彼らの主張によれば、イマーマはイスマーイールか、あるいはその息子のムハンマドの死とともに消滅したという[ 5] 。
イスナーアシャリーヤ
いわゆる「十二イマーム派」[ 5] 。イスナーアシャリーヤは、イマーマがムーサー・カーゼムを経由してハサン・アスカリーまで継続していると信じた者たちの中から台頭したグループである[ 5] 。ハサン・アスカリーが子供を残さず亡くなったとき、シーア派全体に大きな動揺が生じた。シャフラスターニーによると、イスナーアシャリーヤは、ハサン・アスカリーには幼い男子がいたが、殺害されることを恐れて、側近を除いて秘密にしていたと主張した[ 5] 。その男子の名前はムハンマドといい、イマームとして待望される者である[ 5] 。
上述のシャフラスターニーの伝えるイマーム派共同体の分派は、ジャアファル・サーディクの死没(765年)をきっかけにしている[ 5] [ 6] 。十二イマーム派の信条によると、ムーサー・カーゼムは少年の頃に父からイマーム職を受け継ぐ後継者としてナッス(指名)を受けていたとされる[ 6] 。しかしシャフラスターニーなどによると、ジャアファル・サーディクは長男のイスマーイールにナッスを授けていたようである[ 6] 。そのイスマーイールは父より先に、子を残さず亡くなった[ 6] 。さらに次男のアブドゥウラー・アフタフも父の亡くなった数週間後に亡くなった[ 6] 。ハサン裔のファーティマを母とするイスマーイールとアブドゥッラーの兄弟とは異なり、アンダルスの奴隷女を母とするムーサーの名前が歴史的資料に現れ始めるのは、ほぼこの後に限られる[ 6] 。当時のシーア派共同体の指導的立場にあった思想家の中には、ヒシャーム・ブン・ハカム (英語版 ) などムーサーのイマーマ継承を支持する者もいたが、支持するか否かの判断を保留した者もいる[ 6] [ 7] 。
シャフラスターニーの伝える「イスマーイーリーヤ」は、後年の「イスマーイーリーヤ」すなわち、いわゆる「イスマーイール派 」(ファーティマ朝 系、カルマト派 を問わず)とは、その主張するところがかなり異なり、『イスラーム百科事典 第2版』などは proto-Ismā‘īlī (原イスマーイール派)と呼んでいる[ 2] [ 6] [ 7] 。
注釈
^ 『イスラーム百科事典 第2版』はイマーム派を十二イマーム派の別名ないしその前身として扱っている[ 2] 。Imāma や al-Rāfiḍa の項を参照[ 2] [ 3] 。イブン・ハルドゥーン『歴史序説』第3章25節「イマーム問題におけるシーア派の教義」において、著者イブン・ハルドゥーン は、14世紀後半時点のシーア派の間では「イマーム派」という呼名がしばしば「十二イマーム派」に限定されると報告している[ 1] 。
^ ただし、これには諸説あり、ザイドを拒絶したためにラーフィダと呼ばれたというのは可能性のある一説に過ぎない[ 3] 。ザイドの蜂起の前からラーフィダの語が使用されていたことを示す資料もある[ 3] 。
出典
^ a b c Ibn Khaldūn, al-Muqaddima , 3:25.
^ a b c d e f Madelung, W. (1971). "Imāma". In Lewis, B. ; Ménage, V. L. [in 英語] ; Pellat, Ch. [in 英語] ; Schacht, J. [in 英語] (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume III: H–Iram . Leiden: E. J. Brill. pp. 1163–1169.
^ a b c d e f g h i Kohlberg, E. (1995). "al-Rāfiḍa". In Bosworth, C. E. [in 英語] ; van Donzel, E. [in 英語] ; Heinrichs, W. P. [in 英語] ; Lecomte, G. [in 英語] (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume VIII: Ned–Sam . Leiden: E. J. Brill. pp. 386–389. ISBN 90-04-09834-8 。
^ Madelung, W. (2002). "Zaydiyya". In Bearman, P. J. [in 英語] ; Bianquis, Th. ; Bosworth, C. E. [in 英語] ; van Donzel, E. [in 英語] ; Heinrichs, W. P. [in 英語] (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume XI: W–Z . Leiden: E. J. Brill. pp. 477–481. ISBN 90-04-12756-9 。
^ a b c d e f g h i j k l m Vgl. Abu-'l-Fath' Muhammad asch-Schahrastâni's Religionspartheien und Philosophen-Schulen. Zum ersten Male vollständig aus dem Arabischen übersetzt und mit erklärenden Anmerkungen versehen von Theodor Haarbrücker. Erster Theil. Schwetschke und Sohn, Halle 1850, S. 184–199, hier online verfügbar .
^ a b c d e f g h i j k l Kohlberg, E. (1993). "Mūsā al-Kāẓim". In Bosworth, C. E. [in 英語] ; van Donzel, E. [in 英語] ; Heinrichs, W. P. [in 英語] ; Pellat, Ch. [in 英語] (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume VII: Mif–Naz . Leiden: E. J. Brill. p. 645-648. ISBN 90-04-09419-9 。
^ a b Madelung, W. (1971). "Hishām b. al-Ḥakam". In Lewis, B. ; Ménage, V. L. [in 英語] ; Pellat, Ch. [in 英語] ; Schacht, J. [in 英語] (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume III: H–Iram . Leiden: E. J. Brill. pp. 496–498.