『イスラーム百科事典』 (羅: Encyclopædia Islamica; 英: The Encyclopædia of Islām; 仏: Encyclopédie de l'Islam; 独: Enzyklopädie des Islām) はヨーロッパ人東洋学者を中心に編纂されたイスラーム文明の地理・人々・歴史・宗教・文化などの包括的な近代的百科事典である。宗教としてのイスラームのみならず文明としてのイスラームも合わせて詳細な記述を提供する。イスラーム・中東研究にかかせない信頼性ある参考図書である[1]:ix[注釈 1]。
1870年代頃からヨーロッパあるいはエジプトなどの現地でイスラームに関係する近代的体裁の事典の出版が始まっていたが、それらは質・量ともに必ずしも満足できるものではなかった。そこで1890年代に包括的な百科事典の編纂の構想がはじまり、1892年のロンドンにおける第9回国際東洋学者会議の席上、W・ロバートソン・スミスの提唱で編纂委員会が設置されることとなった。1901年ころから、ミハエル・ヤン・デフーイェ(英語版)を委員長に、マルティン・テオドール・ハウツマを編集長として作業が逐次開始された(van Donzel 1995, p. 908)。
提案から出版に至るまで種々の問題や財政難に見舞われたこともあったが[注釈 3]、旧版はヨーロッパにおける東洋学が頂点に達した1913年にライデンのブリル学術出版から刊行が始まっている。H・A・R・ギブ、E・レヴィ=プロヴァンサルらの碩学が編纂にあたった。各項目では可能な限り参考文献が呈示されレファレンスブックとしても有用な編集となっており、大項目となる項では、ほぼ研究論文なみの品質を持つ。英語、フランス語、ドイツ語版があり、英語版は4巻および補遺からなり、総計約5,000ページ、見出し語約9,000語に及び(Daniel 1998, p. 432)、イスラームに関する専門事典として確固たる地位を占めた。その後も新版の刊行が半世紀の長きにわたったため、新版の発刊が1990年代となったアルファベット後半部などは約50年間、参照され続けた。
一方で英語、ドイツ語、フランス語版に異同や質の差が生じるという問題も生じていた。最終的にドイツ語版の索引が刊行されたのは1941年であったが、このころには研究の劇的な深化、西アジア情勢の変化などがあり、すでに全体に古めかしい感はぬぐえないものとなっていた。また完全にヨーロッパで編集され、現地での研究などに目が行き届いていないことやオリエンタリズム的偏りも少なくなかった(Humphreys 1991, pp. 4–5)。
旧版には派生版がいくつかあり、宗教・法学などを中心に再編集・軽量化し2005年までに4刷を重ねる Shorter Encyclopaedia of Islam が1954年に刊行されている。また重要なものに第1版では著しく分量を欠いたテュルク/トルコ関連の記事を独自に編集して大量に追加、イスタンブール大学を中心に編纂されたトルコ語版がある[注釈 4]。ほかに現地研究者の若干の加筆がなされた非公式アラビア語版、およびインド方面の記事を大幅に加えたパンジャーブ大学によるウルドゥー語版がある[注釈 5]。 また英語版は1987年に9分冊でリプリントが出ている。それぞれについて、後述の書誌も参照。
新版は旧版同様ブリル学術出版より英仏語(ドイツ語版は省かれた)で各巻分冊形式で発行されているが、第1巻第1分冊が刊行されたのが1954年である。その後1960年までに第1巻分がすべて刊行された。地図、図版を含み、旧版にもまして文献表の完備が目指されている。ほかに地理、文学、科学、美術の分野、および地域的に中東以外の項目を大幅に増補している(三浦 1998, p. 26)。また概念的な大項目などでは、各地域各時代ごとに章を設けて、専門家が執筆しており非常に詳細である。全体の量も膨大であり、本巻および補遺をあわせて全12巻、総計約20,000ページ、見出し語14,000語前後に及ぶ。その知識の海の圧倒的量により、ほとんど絶対的な評価を確立しているのである。刊行には約半世紀を要し、最終12巻の補遺が発刊されたのが2004年のことである。膨大さゆえに見出し語だけでは十分な検索が期待できないため、ほかに語彙索引などが3冊刊行されており、2006年初頭現在、付録などのさらなる刊行が予定されている。また2002年にCD-ROM版が頒布、2003年以降、オンライン版が運用されている。
さらに中東以外のインド、東南アジア方面は壊滅的で、シリアの地方都市ヒムスについて地図付き6ページが割かれるのに対し、現在のトルコの首都アンカラが3ページ、21世紀初頭現在、世界最大のムスリム人口を持つインドネシアの首都ジャカルタに至っては半ページの記述で人口統計は1940年のものである(Daniel 1998, p. 434)。これは編集に考証学的な好古趣味があるためではないかという批判を招いており(Hodgson 1974, p. 40)、近現代よりも前近代を重視するために発生する偏りであるといえよう。おそらくは新版も旧版のヨーロッパ的東洋学を受け継ぎヨーロッパ人が中心となって編纂したものであり、近現代についての社会科学を中心としたアメリカでの研究を限定的にしか受け入れることができなかったことが影響しているともいえる。
M. Th. Houtsma et al., eds., The Encyclopædia of Islām: A Dictionary of the Geography, Ethnography and Biography of the Muhammadan Peoples, 4 vols. and Suppl., Leiden: Late E.J. Brill and London: Luzac, 1913-38. (英語版。各巻詳細は以下の通り)
Vol.Ⅰ. A-D, M. Th. Houtsma, T. W. Arnold, R. Basset eds., 1913.
Vol.Ⅱ. E-K, M. Th. Houtsma, A. J. Wensinck, T. W. Arnold eds., 1927.
Vol.Ⅲ. L-R, M. Th. Houtsma, A. J. Wensinck, E. Levi-Provençal eds., 1936.
Vol.Ⅳ. S-Z, M. Th. Houtsma, A. J. Wensinck, H. A. R. Gibb, eds., 1934.
補遺(補遺の編者はいずれもM. Th. Houtsma, A. J. Wensinck, H. A. R. Gibb)
Suppl. No.Ⅰ. Ab-Djughrafiya, 1934.
Suppl. No.Ⅱ. Djughrafiya-Kassala, 1936.
Suppl. No.Ⅲ. Kassala-Musha'sha', 1937.
Suppl. No.Ⅳ. Musha'sha'-Taghlib, 1937.
Suppl. No.Ⅴ. Taghlib-Ziryab, 1938.
M. Th. Houtsma, R. Basset et T. W. Arnold, eds., Encyclopédie de l'Islam: Dictionnaire géographique, ethnographique et biographique des peuples musulmans. Publié avec le concours des principaux orientalistes, 4 vols. avec Suppl., Leyde: Brill et Paris: Picard, 1913-1938. (フランス語版)
M. Th. Houtsma, R. Basset und T. W. Arnold, herausgegeben von, Enzyklopädie des Islām : geographisches, ethnographisches und biographisches Wörterbuch der muhammedanischen Völker, 5 vols., Leiden: Brill und Leipzig : O. Harrassowitz, 1913-1938. (ドイツ語版)
M. Th. Houtsma et al., eds., E.J. Brill's first encyclopaedia of Islam, 1913-1936, Leiden: E. J. Brill, 8 vols. with Supllement (vol. Ⅸ), 1987. ISBN 9004097961 (英語版のリプリント版)
旧版の派生版と非公式他言語版
H. A. R. Gibb and J. H. Kramers eds. on behalf of the Royal Netherlands Academy, Shorter Encyclopäedia of Islam, Leiden: Brill, 1953. ISBN 9004006818 (ISBNは1995年E. J. Brill版の第4刷。こちらもアラビア語やウルドゥー語などへの翻訳があるが省略)
M. Th. Houtsma et al. eds., İslâm ansiklopedisi : İslâm âlemi coğrafya, etnografya ve biyografya lûgati, 13 in 15 vols., İstanbul: Maarif Matbaası, 1940-1988. (トルコ語版)
يصدرها باللغة العربية احمد الشنتناوي ، ابراهيم زكي خرشيد ، عبد الحمید يونس، دائرة المعارف الاسلامية : اصدر بالالمانية والانكليزية والفرنسية واعتمد في الترجمة العربية على الاصلين الانكليزي والفرنسي، الطبعة ٢، القاهرة: دار الشعب، -۱۹٦۹ (アラビア語訳の第2版。書誌はごく一般的なカイロ版。ベイルート版もある[注釈 7]。初版は1933年頃で出版年未詳。1969年からの第2版がもっぱら参照されるが途中で止まっており未完[注釈 8]。)
محمود الحسن عارف، مختصر اردو دائرۀ معارف اسلامیه، لاهور:دانشگاه پنجاب، ۲۵ ج.ها،۱۹۵۹-۱۹۹۳(ウルドゥー語版。1959年から1993年。完成)
新版
H. A. R. Gibb et al. eds, Encyclopædia of Islām, new ed., 12 vols. with Indexs and etc., Leiden: E. J. Brill, 1960 - 2009.(英語版。各巻細目は以下の通り。それぞれ分冊で発行されているが、出版年は巻としての出版年を示す)
Vol. Ⅰ, A-B, H.A.R. Gibb, J.H. Kramers, E. Lévi-Provençal, J. Schacht (pp. 1-320); B. Lewis, Ch. Pellat, J. Schacht (pp. 321-1359) eds., 1960. ISBN 9004081143
Vol. Ⅱ, C-G, B. Lewis, Ch. Pellat, J. Schacht eds., 1965. ISBN 9004070265
Vol. Ⅲ, H-Iram, B. Lewis, V.L. Ménage, Ch. Pellat, J. Schacht eds., 1979. ISBN 9004081186
Vol. Ⅳ, Iran-Kha, E. van Donzel, B. Lewis, Ch. Pellat (pp. 1-256); C.E. Bosworth, E. van Donzel, B. Lewis, Ch. Pellat (pp. 257-768) eds., 1978. ISBN 9004057455
Vol. Ⅴ, Khe-Mahi, C.E. Bosworth, E. van Donzel, B. Lewis, Ch. Pellat eds., 1986. ISBN 9004078193
Vol. Ⅵ, Mahk-Mid, C.E. Bosworth, E. van Donzel, Ch. Pellat eds., 1991. ISBN 9004081127
Vol. Ⅶ, Mif-Naz, C.E. Bosworth, E. van Donzel, W.P. Heinrichs, Ch. Pellat eds., 1993. ISBN 9004094199
Vol. Ⅷ, Ned-Sam, C.E. Bosworth, E. van Donzel, W.P. Heinrichs, G. Lecomte eds., 1995. ISBN 9004098348
Vol. Ⅸ, San-Sze, C.E. Bosworth, E. van Donzel, W.P. Heinrichs, G. Lecomte eds., 1997. ISBN 9004104224
Vol. Ⅹ, T-U, P.J. Bearman, Th. Bianquis, C.E. Bosworth, E. van Donzel, W.P. Heinrichs eds., 2000. ISBN 9004112111
Vol. Ⅺ, V-Z, P.J. Bearman, Th. Bianquis, C.E. Bosworth, E. van Donzel, W.P. Heinrichs eds., 2002. ISBN 9004127569
Vol. Ⅻ, Supplement, P.J. Bearman, Th. Bianquis, C.E. Bosworth, E. van Donzel, W.P. Heinrichs eds., 2004. ISBN 9004139745
Index Volume, Peri Bearman, Thierry Bianquis, C. Edmund Bosworth, E.J. van Donzel, Wolfhart Heinrichs eds., 2008. ISBN 9789004144484
Index of Proper Names, E.J. Donzel, Ronald Kon eds., 2009. ISBN 9789004178977
An Historical Atlas of Islam, Hugh Kennedy eds., 2002. ISBN 9789004122352 ※ William C. Brice編集による1981年度版を改訂。
派生版
新版出版後新版の記述をとりいれ残りを旧版でカバーしている類のもの
احسان یارشاتر. دانشنامه ایران و اسلام. تهران: بنگاه ترجمه و نشر کتاب. ۲۵۳۴(イランで独自に翻訳・増補を企画したペルシア語版。イスラーム革命で頓挫するが、イラン百科事典の原型となる。イラン皇帝暦2534年(1976年)以降の刊行で1978年まで)
E. van Donzel, Islamic desk reference: compiled from The Encyclopaedia of Islam, Leiden: E. J. Brill, 1994. ISBN 9004097384 (刊行時新版項目があれば新版を、なければ旧版から要約した用語集)
Gabriel, A. (1948). “La traduction turque de l'Encyclopédie de l'Islam”. Journal Asiatique236: 115–122.
Hamidullah, M. (1961). “The Urdu Edition of the Encyclopædia of Islam”. Die Welt des Islamsnew ser., 6 (3/4): 244–247.
Hodgson, M. G. S. (1974). The Venture of Islam: The classical age of Islam. 1. University of Chicago Press. ISBN0226346773(画期的イスラーム通史と評価され、刊行以来30年、教科書として用いられることが多い)
Humphreys, R. Stephen (1991). Islamic History: A Framework for Inquiry. Princeton University Press. ISBN0-691-00856-6(方法論を含むアメリカの大学学部レヴェルの教科書的通史)
van Donzel, E. (1995). “Mawsūʿa”. The Encyclopædia of Islām. 6 (new ed.). Leiden: E. J. Brill. pp. 908–910. ISBN9004081127
Daniel, E. L. (1998). “Encycloædia of Islam”. In Yarshater, E.. Encycloædia Iranica. 8. Costa Mesa: Mazda. pp. 432–435. ISBN156859058X (旧版についての記述は少ないが、非アラブ関連記事の不足などを批判しつつバランスよくまとまっている)
Peri, Bearman(2018). A History of the Encyclopaedia of Islam. Lockwood Press.ISBN 9781948488044