ムーサー・カーズィム
ムーサー・アル=カーズィム・イブン・ジャアファル・アッ=サーディク (アラビア語: الإمام موسى الكاظم ابن جعفر الصادق al-Imām Mūsá al-Kāẓim ibn Ja`far al-Ṣādiq、745年11月10日 - 799年9月4日)は、シーア派十二イマーム派第7代イマーム。マディーナで生まれ、バグダードに没した。 生涯ムーサー・カーズィムは先代ジャアファル・サーディクの子で、母はハミーダと伝えられる。 ムーサーの生まれたのはウマイヤ朝とアッバース朝の争いのさなかのころであった。21歳のとき、シーア派イマーム派の多数派の支持を得て、アッバース朝の手にかかって没した父の後を継ぎ、イマームとなった。しかし、ムーサーのイマーム継承は必ずしも疑問の余地がまったくないものではなかった。それは彼がジャアファル・サーディクの長男ではなかったことである。長男のイスマーイール・イブン・ジャアファルを支持する者たちは分派して新しい一派を立てた。これが「イスマーイール派」と称される人びとである。これに対し、ムーサー・カーズィムとその子孫の継承を支持する人びとを「十二イマーム派」と呼称する。 ムーサー・カーズィムはアッバース朝の第5代カリフ・ハールーン・アッ=ラシードによって獄に下され、数年後には毒殺された。遺骸はバグダード近郊カーズィマインに葬られている。墓廟はムーサーの孫にあたる第9代イマームのムハンマド・タキーの墓廟と隣接しており、シーア派聖地のひとつとなっている。 系図
カーズィム廟カージマイン・モスク(en)は、バグダードの都心から北へ約8キロメートル、カージミーヤの地に建てられたイスラーム教シーア派の聖地である。金色をした銅板のドームと美しい彩釉タイルの門で知られ、ムーサー・カーズィム(位765年-799年)および孫の第9代ムハンマド・タキー(位818年-835年)が埋葬されているところから、「カーズィム廟」の名がある。霊廟の起源は古いが、現在のかたちに整備されたのは17世紀以降であり、19世紀にガージャール朝ペルシアのシャーによる大改修がおこなわれ、現在にいたっている[1]。ドームは2つあり、これが2人のイマームを象徴している[1]。 イマームの伝承七代目イマーム・カーズィム(彼の上に平安あれ)がこう言った。 「ムスリム信徒を幸福にさせたときは、まずアッラー、二番目に預言者、三番目にわれわれ(アフルル・バイト)を喜ばせているのである」[2] 「現世は海水に似ている。喉が渇いている人がどれだけその水を飲んでも、喉の渇きは増すばかりで、水が彼を殺してしまう」 [3] 補説1979年のイラン・イスラーム革命の最高指導者であったホメイニ(ルーホッラー・ホメイニー、1902年-1989年)は、みずからムーサー・カーズィムの子孫であると称していた。 脚注関連項目
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