ムハンマド・アル=バーキル(アラビア語: أبو جعفر محمد بن علي الباقر ; 西暦676年12月16日 - 743年; 全名アブー・ジャアファル・ムハンマド・イブン・アリー・アル=バーキル)は、シーア派第5代イマーム。アル=バーキルとは「知を分き開く者」の意。
ムハンマドは676年、マディーナに生まれた。713年、父のアリー・ザイヌルアービディーンの跡をついで第5代イマームとなった。シーア派伝承によれば、732年、ウマイヤ朝のカリフ・ヒシャームの従兄弟のイブラーヒーム・イブン・ワリード・イブン・アブドゥッラーの手で毒殺されたという。遺骸は祖父のフサイン、父のアリーとともにマディーナのジャンナトゥル・バキー墓地に葬られている。
生涯
ムハンマド・アル=バーキルは680年のカルバラーでの事件(アーシューラー参照)に参加している。
アリー・ザイヌルアービディーンの継承をめぐっては、ムハンマド・アル=バーキルと、その弟のザイド・ブン・アリーのあいだに争いがあった。ザイドはイマーム職の継承にあたっては、それを公式に宣言したものにのみ権利があり、しかるにムハンマドはイマーム職継承を欲すると公式に宣言していないと主張した。これに対しムハンマドは、父のアリー・ザイヌルアービディーンも公式に宣言したことはなく、とすれば父もイマームではなかったのかと反論する。議論はすすみ、ザイドが、従来シーア派ではイマームと認めないウマルやウスマーンをイマームとして認めると、信徒らはこれを非難した(イブン・ハルドゥーンによる)。ザイドを支持する人々はのちにザイド派となっている。
ムハンマド・アル=バーキルがイマーム位にあるあいだ、ウマイヤ朝では6人のカリフが交替している。またザイドはクーファにおいて対ウマイヤ朝反乱をおこした。多くのシーア派信徒がマディーナにあったという事実と複合して、このように不安定な状況は、ムスリム全体へシーア派の大義を広める可能性をもたらすものであったといえよう。これ以降シーア派は名高い学者を多く輩出している。
系図
典拠
- Tabarî(タバリー), La Chronique Tome II, Les Omayyades, éditions Actes Sud / Sindbad
- Ibn Khaldûn(イブン・ハルドゥーン), Muqaddima III, éditions Gallimard , la Pléiade.