アーデルハイト・フォン・レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルク
アーデルハイト・フォン・レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルク(Adelheid von Löwenstein-Wertheim-Rosenberg、1831年4月3日 - 1909年12月16日)は、ポルトガルの廃王ミゲル1世の妻。ミゲルの廃位後に結婚したため、王妃ではない。ドイツ語での全名は、アーデルハイト・ゾフィー・アマーリエ・ルイーゼ・レオポルディーネ(Adelheid Sophie Amalie Louise Leopoldine)。ポルトガル語ではアデライデ(Adelaide)。 生涯レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルク家の侯世子コンスタンティンと、その妻でホーエンローエ=ランゲンブルク侯カール・ルートヴィヒの娘アグネスの間の長女として、クラインホイバッハ(現在のバイエルン州ミルテンベルク郡の町)で生まれた。生家はヴィッテルスバッハ家の傍系だった(先祖はプファルツ選帝侯フリードリヒ1世)。 1851年9月24日、20歳で49歳のミゲルと結婚した。ミゲルは姪マリア2世と王位を争って敗れ、自身への年金と引き替えに退位してオーストリアへ亡命していた。彼は二度と王座に返り咲くことはなかった。1837年にはスペインの第一次カルリスタ戦争に介入し、王位僭称者モリナ伯カルロスの支援をしたが失敗に終わった。アーデルハイトと結婚している間も、彼はイベリア半島の絶対王政の象徴であった。 1866年11月にミゲルが死んだとき、6人の子供たちはまだ成年に達していなかった。アデライデはそれから10年もの間、子供たちにポルトガル王子・王女としてふさわしい結婚をさせるべく、ヨーロッパの有力王族・貴族との縁組成立のため奔走した。彼女の努力は成功を収め、彼女の子孫たちは現在のベルギー王家やルクセンブルク大公家、ハプスブルク家につらなっている。 アーデルハイトは1909年にイギリス・ワイト島で亡くなり、ブラガンサ家の墓所のあるリスボンのサン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院に葬られた。 子女いずれもポルトガル語名で記す。
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