マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガル
マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガル(Maria Teresa von Portugal, 1855年8月24日 - 1944年2月12日)は、オーストリア大公カール・ルートヴィヒ(皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟)の3度目の妃。ポルトガル語名マリア・テレザ・デ・ブラガンサ(Maria Teresa de Bragança)。
生涯ポルトガルの廃王ミゲル1世とその妃であるレーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルク侯女アーデルハイトの次女としてクラインホイバッハで生まれた。父ミゲルは、姪にあたるポルトガル女王マリア2世と王位を争って敗北した経緯から、一家はオーストリア庇護下にあった。 1873年7月、18歳で40歳のカール・ルートヴィヒと結婚する。カール・ルートヴィヒはすでに2人の妃に先立たれており、この結婚は3度目だった。 夫であるカール・ルートヴィヒは、マリア・テレサにしばしば怒りと嫉妬を向け、この結婚生活はマリア・テレサにとって不幸なものであった。このような状況にもかかわらず、マリア・テレサは夫が2度目の妃マリア・アンヌンツィアータとの間にもうけた子どもたちを熱心に世話し、良き継母となった。フランツ・フェルディナント大公をはじめ、継子たちはマリア・テレサを慕ったという。 穏やかな気性のマリア・テレサは、義理の兄に当たる皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に好かれ、たびたび宮殿に呼ばれては老齢の皇帝の話し相手となっていた。のち、皇太子となったフランツ・フェルディナントが、身分の低い貴族出身であるゾフィー・ホテクと結婚するに当たり、激高した皇帝をなだめ、渋々ながら結婚に同意させたのは、マリア・テレサの仲介があったためとも言われた。 義理の孫の一人がのちの皇帝カール1世で、マリア・テレサの元を訪問していた時にカールが会ったのが、のちの皇后、パルマ公女ツィタ(マリア・テレサの妹マリア・アントニアの娘)であった。 子女
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