アレグザンダー・リンジー (第4代クロフォード伯爵)第4代クロフォード伯爵アレグザンダー・リンジー(英語: Alexander Lindsay, 4th Earl of Crawford、1420年代 – 1453年9月)は、スコットランド貴族。リンジー氏族の一員であり、「虎」(The Tiger)や「あごひげ伯爵」(Earl Beardie)、「長髭のデイヴィッド」(David with the long beard[注釈 1])などのあだ名が知られる[1]。 生涯第3代クロフォード伯爵デイヴィッド・リンジーとマージョリー・オグルヴィ(Marjory Ogivlie、1476年以降没、アレグザンダー・オグルヴィの娘)の息子として生まれ、1445年7月1日までに騎士爵に叙された[1]。 爵位継承以前にアーブロース寺院より寺院のChief Justiciarに任命されたが、寺院側はアレグザンダーの従者に必要な維持費が高すぎるとしてアレグザンダーを解任、代わりにアレグザンダー・オグルヴィ(Alexander Ogilvie)を任命した[2]。これに対しアレグザンダーが武力でアーブロース寺院とアーブロースの町を占領したため、オグルヴィ氏族はアレグザンダーをアーブロースから追い出そうとし、アレグザンダーは町門の前に戦列を展開してオグルヴィ氏族の軍勢を待ち構えた[2]。これが1446年1月13日のアーブロースの戦いである。いざ戦闘に及ぼうとする矢先にアレグザンダーの父である第3代クロフォード伯爵デイヴィッド・リンジーが両軍の間に現れ、何とか衝突をやめさせようとしたが、その前にオグルヴィ氏族の兵士に槍で致命傷を与えられた[2]。これにリンジー氏族が激怒してオグルヴィ氏族を攻撃、そのまま勝利したが、第3代クロフォード伯爵が重傷により4日後に死去したため、アレグザンダーはクロフォード伯爵位を継承した[1]。また、世襲職のアバディーン州裁判所判事(Sheriff of Aberdeen)も継承した[1]。アーブロースの戦いによるリンジー氏族とオグルヴィ氏族の間の恨みは1世紀以上続いたという[2]。 1451年、在イングランド王国スコットランド大使を務めた[1]。 父と同じくダグラス伯爵家やジョン・オブ・アイラと同盟した[2]。1452年2月21日[2]に第8代ダグラス伯爵ウィリアム・ダグラスがスコットランド王ジェームズ2世に殺害されると反乱を起こしたが、5月18日のブレッチンの戦いで初代ハントリー伯爵アレグザンダー・ゴードンに敗れ[1]、自身の所有するフィンヘイヴン城に逃走した[2]。その後、クロフォード伯爵は土地、財産の没収を宣告され、アバディーン州裁判所判事からも解任され、代わりにハントリー伯爵に与えられた[2]。 しかし、ダグラス伯爵の失脚をみて、これ以上抵抗しても無駄であると観念したクロフォード伯爵はまずハントリー伯爵とセント・アンドルーズ主教ジェイムズ・ケネディの信用を得て、続いて帽子をかぶらず裸足でジェームズ2世の前に現れ、降伏の言葉を述べた[2]。ジェームズ2世はクロフォード伯爵を許し、翌1453年4月に財産を返還、さらにGuardian of the Marchesに任命した[1]。 1453年9月に熱病でフィンヘイヴン城で死去[2]、息子デイヴィッドが爵位を継承した[1]。 家族マーガレット・ダンバー(Margaret Dunbar、1498年と1500年の間に没、サー・デイヴィッド・ダンバーの娘)と結婚[1]、2男1女をもうけた[3]。
注釈
出典
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