アリー・モレナー・レーシング
アリー・モレナー・レーシング ( Arie Molenaar Racing ) は、かつてロードレース世界選手権に参戦していたオランダのレーシングチーム。1994年から2010年までの17年間、125ccクラスを主戦場に活動し、青木治親のライディングにより2度のワールドタイトルを獲得した。 チームの概要オランダ出身のアリー・モレナー ( Arie Molenaar, 1965年 - ) がオーナー。彼は、父親のアリー・モレナー(同姓同名)が創業したバイクショップ「アリー・モレナー・モータース」の経営に携わりながら、1994年より自らのチームをロードレース世界選手権に参戦させた。日本では青木三兄弟のうち宣篤、治親、そして沼田憲保が所属していたチームとしてその名を知られる。 チームの歴史アリー・モレナー・レーシングは1994年よりロードレース世界選手権125ccクラスに参戦を開始した。初年度はオランダのベテランライダー、ハンス・スパーンをライダーに迎えた。この年が現役最後のシーズンとなったスパーンは、翌年からはチーフメカニックとしてチームに参加することになった[1]。 1995年には125ccクラスにGP2年目の青木治親が移籍。治親はシーズン7勝を挙げ、自身・チーム初となるワールドチャンピオンに輝いた。初参戦となった250ccクラスでは治親の2つ上の兄の青木宣篤をライダーに迎え、宣篤はシリーズランキング6位となった。翌1996年も青木兄弟の2クラス参戦の体制が続き、治親は見事タイトル2連覇を果たし、宣篤はシリーズ7位となった。 1997年からはマシンをそれまでのホンダから、ワークス参戦を開始したスズキのRGV‐Γ250に変更した。同マシンの開発を手がけてきた沼田憲保をエースライダーに2シーズンを戦ったが、マシンの性能が芳しくなく、満足な成績は残せなかった。また1997年のオーストラリアGPでは、のちにスーパーバイク世界選手権チャンピオンとなるトロイ・ベイリスがワイルドカード枠でチームからGPデビューを果たし、非力なマシンながら6位に入賞する活躍を見せた。 2000年にはユルゲン・ファン・デン・グールベルクをライダーに迎え、チームは最高峰500ccクラスに初参戦を果たした。ホンダ・NSR500Vをベースにテクニカル・スポーツ製のフレームを搭載したマシンでシリーズランキング13位に入り、ベストプライベーター賞を獲得した。2001年はグールベルクに代わって青木治親がチームに復帰し、NSR500Vを駆ってシリーズ17位に入り、2年連続となるベストプライベーター賞をチームにもたらした。 2002年はチームは最高峰クラスから撤退し、治親は250ccクラスでRS250RWの開発を兼ねてシーズンを戦い、シリーズランキングでは14位となった。 2003年は女性ライダーのカーチャ・ペンスゲンを迎え250ccクラスを戦ったが、ノーポイントに終わった。2004年と2005年は250ccクラスにチェコのヤコブ・シュムルツ、125ccクラスに地元オランダのレイモンド・スカウテンの体制で戦ったが、両クラスとも成績は低迷した。 2007年からチームは125ccクラスに集中することになった。人材派遣会社のデグラーフがメインスポンサーに就き、エントリー名は「デグラーフ・グランプリ」となった。2008年にはケニー・ロバーツの支援を受けたアメリカ人ライダーのスティービー・ボンセーがシリーズ15位の成績を残した。 2009年はチーム在籍3年目となるイギリスのダニー・ウェブと、KTMから移籍してきたスイスのランディ・クルメナッハがファクトリースペックのアプリリア・RSA125を駆ってシーズンを戦った。 2010年シーズンはスイスの建設会社であるスティパがメインスポンサーに就き[2]、チーム名は「スティパ・モレナー・レーシングGP」となった。チーム2年目のクルメナッハのチームメイトは当初クエンティン・ジャケが務めたが、3戦目からはルイス・サロムに交代となった。クルメナッハは全17戦中15戦でポイントを獲得して年間ランキング9位を記録、サロムもランキング12位に入る活躍を見せた。 2011年はサロムが残留し、チームメイトには新たにオランダのジャスパー・イウェマが加入する予定だったが[3]、このシーズンから地元オランダでのMotoGPの放送が無くなってしまったことからスポンサーに降りられてしまい、資金難に陥ったモレナー・レーシングは活動停止を余儀なくされた[4]。なおサロムは旧チームスタッフの一部により新規結成された「RWレーシングGP」チームから[5]、イウェマはイタリアのフォンタナ・レーシングから継続参戦できることとなった[6]。 チームの戦績
脚注
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