アリタ川の戦い (1068年)
歴史前史『原初年代記』における、ポロヴェツ族に関する最初の言及は1055年の頁であり、ペレヤスラヴリ公フセヴォロドと、ポロヴェツ族とが和平条約を結んだ、という内容である。ルーシの地(キエフ大公国領)南方の遊牧民・トルク族が、1060年にルーシの軍勢に追いやられたのち、ポロヴェツ族の勢力圏はルーシの地の南方に接するようになっていた。1061年には、ポロヴェツ族の一軍が、かつてのキエフ大公ウラジーミル1世、ヤロスラフ1世の設備した防衛線(沿スーラ川防衛線、沿ローシ川防衛線)を突破し、ルーシの地へ侵入している。 1068年より、キエフ大公イジャスラフ、チェルニゴフ公スヴャトスラフ、ペレヤスラヴリ公フセヴォロドの3兄弟は、ヴォルィーニ公イーゴリ、スモレンスク公ヴャチェスラフの2人の弟が死亡したのち、その所領であったヴォルィーニ公国、スモレンスク公国領を、自身らの所領に加え、ルーシ全域をその管轄化に収めていた。また、1067年のネミガ川の戦い(ru)で、ポロツク公フセスラフ率いるポロツク公国軍を破り、和平交渉の場において、フセスラフを捕虜としていた[1]。 戦闘アリタ川における、戦闘の詳細は記録されていない。シャルカンの率いるポロヴェツ族が、ドニエプル川左岸のルーシの地に侵入すると、イジャスラフらはこれを迎撃したが敗北した[2]。 その後アリタ川で敗北した後、スヴャトスラフはチェルニゴフへ、イジャスラフとフセヴォロドはキエフへ戻ったが[3]、イジャスラフらは新たな軍を編成することには難色をしめした。これはキエフの住民による蜂起(ru)を引き起こした。ヴェーチェ(民会)が開かれ、先に捕虜となっていたフセスラフがキエフ大公に擁立された[1]。イジャスラフはポーランド王ボレスワフ2世のもとに身を寄せた[1]。イジャスラフが再びキエフを奪回するのは1069年のことになる[3]。 また、『ノヴゴロド第一年代記』によると、イジャスラフの亡命中の1068年11月1日に、フセヴォロドの率いる3千人の軍勢が、シャルカン率いる1万2千人のポロヴェツ族の軍勢をスノフ川で破り(スノフ川の戦い)、シャルカンを捕らえたと記されているが[4]、『原初年代記』にはこれに相当する記述はみられない。 出典
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